『有限会社サンセンター』 取締役社長 岩田忠幸

ー『LITTLE HONG KONG』など、素敵なカフェを経営している岩田さんの生い立ち、経歴を教えて下さい。

実家は大須からすぐ近くの下前津っていう所なんです。で、幼稚園は大須スケートリンクのすぐ裏の西別院幼稚園という所なので、幼稚園の頃の同級生は『矢場とん』さんの社長や大須商店街の玩具屋さんだったり、今でも大須で頑張っている地元の方々が多いですね。大須スケートリンクが、まだ今みたいに綺麗じゃない時代、奥に空手の道場があったんですけど、そこには僕や『矢場とん』さんの社長も通ってましたね。当時は、まだ有名になる前の伊藤みどりさんがスケートリンクへ練習に通っていて、外には屋台のラーメン屋さんが出ていて、僕らが食べていると練習終わりに伊藤みどりさんも山田コーチと食べに来たり(笑)。大須の街が遊び場、そんな少年時代でしたね~。

ーなるほど。以前、この企画でお話を伺わせて頂いた堀田さん(http://ooooosu.com/2015/talk-relay/talk_relay_18/)とも同級生なんですよね?

そうなんですよ、彼とは同じ伊勢山中学校です。僕はギリギリ伊勢山中の学区だから、歩いて登校するのがしんどかった(笑)。高校では別々になっちゃったんですけど、今でも仲良くしています。僕は緑区の坂の上にある緑高校に行って、岐阜・瑞穂市の朝日大学に通いました。歯学部が有名らしいんですけど、僕は経営学部に(笑)。その後、アメリカへ留学しました。

ーどうしてアメリカだったんですか? やっぱり、語学留学?

というよりは、アメリカに対しての憧れ(笑)。小学3年生の時にシアトルに家族で遊びに行ったのがきっかけです。親戚のおじさんが商社の駐在員として向こうに住んでいたので、おじさん宅に行って見たら、リンゴの木が植えてある広い庭があって、殻付きのピーナッツを投げると可愛らしいリスが寄って来たり…っていう光景を小学校の子どもが見たら、「アメリカは夢の国だ! 」となっちゃう訳ですよ(笑)。それに、どこに行ってもアメリカ人はみんなフレンドリー。その時にも「この国の人はイイ人ばかりだ。いつか住んでみたい」ってその頃からずっと思っていたので、大学卒業後に渡米したんです。

ーあれっ!? でも、今やられているお店には“HONG KONG”とありますけど(笑)。

まぁまぁ、それは追々お話しますよ(笑)。当時は、語学スクールに通いながら日々を過ごしていて、遠足の様な学校行事でサンフランシスコのゴールデンゲードパークという大きな公園に行く事になったんです。で、公園でソフトボールとバレーをやる事になったので、それまで小中高と野球部だったので、ソフトボールをやる事にしたんです。僕が守備をしていたら、大きい打球がバレーをやっている方に飛んでいったんです。ボールを追って行ったら、バレーをやっている女の子がボールを拾ってくれて、僕が「カワイイ子だな~」って思っていたら、彼女の方から「こっちで一緒にバレーをやらない? 」と声を掛けてくれたんですよ。それが今の奥さんとの出会い(笑)。打球を拾ってくれなかったら出会っていなかったかも知れない(笑)。

ードラマチックですね~。奥さんも当時留学されていたんですか?

彼女は香港の人で、香港から僕と同じ語学スクールに留学していて、隣のクラスだったんです。公園で初めて会ったんですけど、それからは学校でもよく話す様になって、自然の流れで交際をするようになったんです。サンフランシスコには、大きなチャイナタウンがあるのでデートはそこが多かったですね。そこで中国・香港系の食べ物を教えてもらったんですが、ちょっとしたカルチャーショックというか感動を覚えました。まだまだタピオカドリンクや飲茶がメジャーになっていなかったので、それまで日本で食べた事は無かった。それに、とにかく美味しかった! 「これを日本でもやればいいのに」って、そう思ったのが今の店をやるきっかけです。

ー好きな方の国の文化を好きになれるって素敵ですね。

毎日の様にチャイナタウンへ行っていて、毎日の様に食べても飽きない、そんな向こうの食べ物が一気に好きになりました。それから2年くらいサンフランシスコに居たんですけど、一度お互いがそれぞれの故郷に帰る事になったんですが、その後も遠距離恋愛を続けていたんです。でも、やっぱり一緒にいたいという事で彼女の方が愛知学院への留学で名古屋に来まして、それで今度は日本で一緒に住む事になったんです。それも、ウチの実家に(笑)。

ーいきなりですね(笑)。岩田さんは当時、何をやられていたんですか?

そうそう、いきなり(笑)。当時は、彼女は学生として学校に通い、僕はカフェの修行。帰国後に「アジアンカフェをやりたい」と思い、「でも、まずはその勉強」という事で、お店を探していたら、ちょうど帰国した頃にLOFT名古屋(ナディアパーク)が出来ていて、そこにエスプレッソ系のカフェがあったので、いきなり自分の店をやれるとは思っていなかったし、エスプレッソにも興味があったので、そこで働き始めました。でも、そこの社長さんに「ゆくゆくはタピオカドリンクなどを出す、アジアンカフェを開きたい」という話をしていて、社長さんもそういう事に興味がある方だったので、「別事業としてやろうか! 」っていう話にまで進んでたんですよ。

ーその話は実現されたんですか?

結局はお互いの狙いがズレてきたので、なくなってしまいました。その社長さんは元々、商社に勤めていた方でアジアンカフェのお店を出すよりも、コストを掛けずに利益が出る方へ考えが進んでいって、僕が考える“文化も含めた空間を提供する”っていう考えとズレが生じてしまい、理想の形で出来ないのであれば意味が無いと思ったので、3年間お世話になったんですけど、自分で独立してやろうと思いました。

ーその後、現在のお店へと進んで行くんですか?

単純にカフェとしての勉強は出来たんですが、こと料理に関しては何も勉強出来ていなかったんですよ。なので、彼女(現在の奥様)に「香港は食の宝庫、食の都だから、香港で修行したい。どこか働けるお店を知らないか? 」って相談したら、ご両親の知り合いにお店をやられている方がいらしたので、そこで働く為に香港に渡ったんです。香港では、彼女(現在の奥様)の実家に住まわせてもらってました(笑)。

ー岩田さんは奥様の実家、奥様は岩田さんの実家という、トレード状態だったんですね(笑)。

そうなんですよ(笑)。僕は広東語、彼女は日本語の環境じゃないですか!? お互い大変でしたね。それにお店で働くにしても食材の名前もまともに分からないので、苦労しました。身振り手振りで対応してましたから(笑)。香港は多少、英語も通じるので日常はそれほど困らないんですけど、やっぱり働くとなると専門用語もあるので大変でした。向こうの人って基本、何も教えてくれないんですよ(笑)。だから、休憩中も言葉と技術を覚える為に必死でした。それでも、ちょっとずつ認められてきて、雑用から食材を準備する役、食材を切る役、炒める役と、2年の間になんとか鍋を振る事は出来ました。帰国後、「本場で働いたけど、やっぱり日本のお店でもやらなきゃ」と思い、アジア系の居酒屋『ななや』さんの錦店でキッチンスタッフとして働きました。

ー当時はもう具体的に出店の事を考えていたんですか?

そうですね。『ななや』さんに入る時に、「出店するつもりで物件を探している最中なんですけど、それでも雇ってくれますか? 」って話していました。料理長の人も「ウチはやる気があるなら誰でもOK」と言って頂けたので、働きながら探してました。そうしたら、大須店の場所が見つかったんです。想像以上に広かったんですが、どうせやるなら地元が良いなって思っていたので、すぐに決めました。ネーミングも、香港の地元の人が食べている様な本場の食べ物や飲み物、デザートをなるべくそのまま提供する場所にしたいなっていう思いから、“日本の中にある小さな香港”っていう意味の“LITTLE HONG KONG”に決めたんです。当時、まだ彼女は学生だったんですけど、僕の周りの友人からは、「将来は結婚って事なんでしょ!? 」、「その名前付けちゃったら、もう決まりだね! 」って言われてました(笑)。

ー当時の岩田さんの状況からすると、その店名にしたら、ある意味プロポーズですもんね。

まぁ、そうですよね(笑)。最初のお店を2002年、29歳の時にオープンしたので、自分も彼女が卒業したら結婚だなって思ってました。その後、彼女が卒業してすぐの僕が31歳の時に結婚。結婚式は香港で開いて、400人以上出席して頂けて、当たり前ですけど、ほとんどが彼女の方の親族や友人、知り合いでした(笑)。

ー気になるところなんですが、文化や言葉が違う事など、またはそれ以外に国際結婚に関して障害はありませんでしたか?

僕の両親を含めて、軋轢などは一切なかったですね。お互いがお互いの実家に住んでいる時から、彼女と僕の両親はすごく仲が良くて、父親は単純に女の子がいる事で嬉しかったみたいですし(笑)、母親も僕らが男3兄弟なので、「娘が出来たみたい」と喜んでいましたから。もちろん、彼女の人柄、積極性があっての事だとは思いますけどね。まぁ、あとはなっちゃったモンはなっちゃったモンですから(笑)、まさか僕も留学先で出会うとは思いませんでしたよ。それに、将来カフェをやるなんて、当時は思ってもなかった。

ー現在は、奥様も一緒にお店に立たれているんですよね?

そうですね。ホールスタッフは女の子が多いので、その子達のお姉さん的な役割として、ホールをまとめてくれてます。それと、デザートやスウィーツは彼女が担当していますし、メニューに関しても、香港の人って小さい頃から医食同源という考えを教わっているので、季節によって扱う野菜を変更したり、体に良いモノをセレクトしてくれています。また、その知識をスタッフやお客さんに教えてくれたり、仲の良くなったお客さんと香港旅行に行って、現地をアテンドしたり、彼女の実家にみんなで宿泊したり(笑)、そんな感じでお店の為に働いてくれています。

ー夫婦仲良く、それぞれが得意分野で助け合って、そして順調に知名度を広めて、今は3店舗ですよね?

おかげさまで、今は3店舗ですね。始めたばかりの頃は、彼女の学校の友達にアルバイトとして入ってもらって、ホールは彼女に任せて、キッチンは僕がやってという感じでやってました。3年くらいしたら2階部分も空いたので、1階はカフェ、2階はディナーという具合にニーズに合う様に棲み分けをさせて、それぞれの良さを演出しています。またその3年後くらいに名駅店を出店。二次会も出来るお店っていう感じの造りにしました。

ー大須、名駅ときたら、次は栄か!? って感じがするんですが、栄への出店計画は考えていないんですか?

期間限定なんですけど、PARCOのレストランフロアに2010年12月から2011年の1月末の間、出店したんですよ。PARCO側からは、「期間限定ではなくて常設で是非」と言われたんですけど、ウチの特徴ってどうしてもメインは夜の時間帯、けれどもPARCO・飲食のメインの時間帯ってどうしてもお昼なんですよね…それに家賃も安くない…そうなると、まずは「期間限定でお願いします」となった訳です(笑)。それに、お昼がメインですとメニューも全部は出せないので、ライスヌードルを使ったフォーの専門店として40日間出店しました。

ー新たなチャレンジの手応えはどうでしたか?

時期が時期だったので、とにかく忙しかったです。やっぱり年末って、PARCOでも一番忙しい時期なんですよね。“ここが最後尾です”っていうプラカードが出るほどの行列でしたから。初売りセールの時なんかもスゴかったですよ、まぁ、どこのお店もそうなんですけど(笑)。でも、忙しい時期だからこそ、勉強にもなりました。それに、同フロアのお店の売上チェックが出来るんですよね。前日の売上データを打ち出せるので、「こういう業態は強いんだな」とか「あそこは回転悪そうだけど、こんなに売上あるんだ」とか、自店はもちろん、他店のお昼のデータを得る事が出来たので、ウチもお昼を戦えるっていう手応えと、またお昼に挑戦したいという意欲が生まれましたね。本格的な点心や飲茶をもっと提供したいので、その勉強をしに、また香港に行って来ます。近々お昼の業態もお披露目出来たらと思ってます。

ー楽しみです! では、水野さんから頂いた3つの質問にお答え下さい。まずはひとつ目「夫婦仲のイイ岩田さん、お子さんのご予定は?」

欲しいですね~。今、僕が38歳で彼女が32歳、それに結婚生活6年目と言う事と、彼女の妹に子どもが産まれた影響もあって、僕も彼女も「欲しい、欲しい」っていう考えになっているので。新婚当初は、お店の状況もありましたので、「ちょっと、まだだな」っていう感覚だったんですけどね。なので、質問の答えは、「今すぐにでも出来れば欲しい」です。

ー続けてふたつ目の質問です。「昔、ワルかったって噂はホントですか(笑)?」

んな事ないですよ(笑)。いわゆるヤンキーでもなかったですから、ただの噂です。少年時代は、“あばれはっちゃく”的な(笑)、やんちゃはしてましたけど、…教室で花火だとか、そんなバカな事くらいですよ。それでもやっぱり、僕の出身中学の1つ2つ上の方々は、特にワルい印象でしたけどね(笑)。その噂も、そういうイメージからきているんじゃないですかね!? 時代が、誰でも暴走族に参加出来るっていう感覚の時代でしたし、「ビー・バップ・ハイスクール」の全盛期でしたから。…でも、僕は違いましたよ、中高と野球部でしたから、野球ばっかでしたよ(笑)。

ーヤンキーでなくてもワルい方はいらっしゃいますからね(笑)。では、みっつ目「ところでマラソンはいつまで続けるんですか(笑)? 」

お金も掛からないし、健康にも良いので一生やろうと思ってます。フルマラソンはまだ走った事ないですけど、名古屋シティマラソンのハーフは去年走りました。まだ、公式な大会に出たのはそれくらいなので、歴は浅いんですけど、昨年から意を決してやり始めました。でも、ひとりでやるのが嫌だったので、お店のスタッフを2人道連れに(笑)。3ヵ月前から本格的に練習を始めて大会に挑みました。やっぱり気持ち良いですね~やってみて思ったのは、走る事、特にマラソンって“人生の縮図”とでも言うべきモノだなって。サボりたければサボれば良いし、辛ければやめれば良いし、やったからと言って何かが目に見えて変わる訳でもない、でも、やったらやった分だけ成果は出るんですよ。今までやってきた団体競技と違って、相手が自分なので、とことんストイックなスポーツですよね。今はその日のコンディションによって距離は変えているんですが、仕事を終えてからの深夜に5~10kmくらい走ってます。もっぱら多いのは、大須から熱田神宮への往復ですね。

ーそれに、無心で走るとスッキリしますよね。ではでは、今後の展望を聞かせて下さい。

朝・昼・夜と、どの時間帯も営業出来る様なお店を創りたいですね。今やっている3店舗は、どのお店もメインのお客さんが女性なので、男女、それに年齢を問わず楽しめるお店も良いかなって思ってます。子ども連れや家族で来れたり、どの時間に来ても、その時間に相応しい食事が楽しめる…理想はそんなお店ですね。中華、香港っていうコンセプトからは外れる事無くやっていきたいです。

ー最後の質問です。地元・大須に対してはどのような考え・思いを持っていますか?

ウチのお店は大須でも端に位置しているので、人で賑わう通りや商店街っていういわゆる“大須”っぽい場所に位置していないので、自分自身ちょっと大須に参加していない様な…そんな寂しさを感じてしまうんです。けど、やっぱり地元なので何か出来ないだろうかと、今まで受けた恩恵をお返しする気持ちは、大須の街に対して常に持ってます。ウチの周りの区画にももっとお店が出来れば、大須に広がりも出来ると思うので、良いと思うんですけどね。