『VIOLET BLUE』 代表 三浦敦史

『VIOLET BLUE』  代表  三浦敦史
ーでは、よろしくお願いします! まずは三浦さんのこれまでの経歴を教えて下さい。

今年で39歳になります。名古屋ではなく、安城で生まれ育ちました。小さい頃は野球少年でしたね。今でも好きで、草野球もやってます。ちなみにチーム名は「シャイズ」。小学校の頃は卒業アルバムに「夢はプロ野球選手」って書いてたけど、大きくなるにつれ、高校も甲子園と程遠い学校に進んだので、ただの夢として終わっていきましたけど。

ー高校卒業後はどのように進んだんですか?

普通に県内の大学に進んで、これまた普通に就職。「なんで? 」って聞かれても、特に入りたい訳でもなく、当時は、就職浪人もどうかと思っていたので、内定をもらった結婚式場に入社しました(笑)。夢もなく、ただ進んで行った感じ、ただ、「このままサラリーマンになるのか…」って漠然と疑問に思う事はありました。

ー冠婚葬祭の場を仕切る“ビシッと”した立ち振る舞いに憧れを抱いたとかではないですか?

確かにホテルマンとかそういう職種の“キリっと”、“ビシッと”した格好良さに少し「イイな」と思ったのは事実だね。当時は、「いわゆるキレイな職場なんだろうな〜」と漠然と感じていた。そんな事だから、居心地があまり良くなかったですし(笑)、約2年くらい勤めた程度でした。

ーまだ現在の職業に通じる部分が出て来ないですが、そろそろ転機が訪れるんですか?

いや(笑)、その後は、特に語れる事もなく…中でも語れそうなのは、当時はまだ結婚してなかったんだけど、嫁さんのお兄さんが、ゲームセンターなんかを経営していた関係で、その会社に入社して、ゲーム機を企画したりなんかをしていました。

ーちなみにどんなゲーム機を企画したんですか?

稲川淳二の超怖い話っていうゲーム機。ゲームセンター用のゲーム機ですね。元々、稲川淳二の超怖い話っていう映像があって、それをゲームセンターで観れたら面白いんじゃないかと思って、企画したんです。もちろん、色々と大変でしたね。映像権利を持っている会社と交渉をしたり、契約したりと…、でも、全国で3台しか売れませんでした(笑)。関係者の間では「面白い企画だ」って言われて、売れるんじゃないかと思ったんですけどね。それにマーケティング調査的な市場実験では、良い数字も出ていたから、期待したんだけど…全国のゲームセンターには置いてもらえなかった。ちなみにプリクラ機くらいの大きさで、100円を入れると稲川淳二の話が聞けるっていう感じです。

『VIOLET BLUE』 代表 三浦敦史ー調査の数字が良かったのに残念でしたね。

結局売る力が無くて、売り方も分からなかったんですよね。ゲーム専門誌に掲載してもらったりはしたんですけど、いきなり作って、いきなり売りたいって言った所で、無名の所が出した5、60万円のゲーム機は、さすがにどこも買ってくれなかった(笑)。ただ、今思うのは、大きなゲームセンターと組んで売っていたら、多少儲かったかなって事。当時は舞い上がっていたのもあって、「儲けを持っていかれる」って自分達で全部やっちゃったんですよね。失敗しちゃったな〜。

ーその後、いよいよお店を始められると、いくつの頃に始められたんですか?

そうですね、そのゲーム会社に約2年間くらい居て、26歳の時に店を始めました。元々、店を始める気はなかったんですが、稲川淳二のゲーム機の企画以来、自分的に面白い事が出来ずに思い悩んでいたんですよ。そんな時にたまたま見掛けた、今は無き「月刊ブルゾン」という雑誌に、大須のブルックリンヴィレッジで出店募集っていう広告があったんですよ。当時雑誌なんてそうそう買わなかったのに、たまたま買って、たまたま見掛けてピンとくるって事は…これは天のお告げじゃないけど(笑)、何かあるなって事で始めました。…ただ、前から“社長”いなりたいとは思ってましたけどね(笑)。

ー社長になりたいっていうのは、いつ頃からおもっていたんですか?

いつ頃からだろうな〜。でもね、ゲーム会社に居る頃は、いきなり専務からのスタートだったんですよ(笑)。嫁さんのお兄さんからの誘い文句が「専務にさせてやるから入らんか? 」だったので、自分も「専務だったらやります」って(笑)。若い頃は、肩書きの響きだけで満足してました。でも、一緒に働いていく内に、当たり前なんだけど、一方は社長で一方は専務…だんだんと自分も事業を起こして社長になりたいなって思ってきたのが、一番強いですかね。

ーなるほど(笑)。当時から今の様なゴシック・ロリータ系のお店だったんですか?

最初の頃は服さえ売っていなかったですよ。アパレル経験もなかったものですから、何もせずに、ただお店を始められた事に満足していました(笑)。だから、とりあえずツレから貰った服だったり、自分の要らない服や小物を並べたりして。仕入れ先も勉強せずに始めてましたね(笑)。

ー当時、自分の私物や友人からの貰い物でのお客さんの反応はどうでしたか?

ある程度、当時の流行りモノを自分が着用していたので、割と売れた事は売れたんですけど、商売的に見たら、全然。流行りモノがはけたら、一日の売上が、ゼロ、ゼロ、500円、ゼロ、ゼロ、500円…みたいな感じでしたよ(笑)。最初の頃はそんな感じでした。

ーそれからどのように変えて・変わっていったんですか?

12、3年前って今以上に「HYSTERIC GLAMOUR」の人気がスゴくて、旬のブランドと言えば「HYSTERIC GLAMOUR」っていう時代だったんですよ。そんな時に、妹のツレが「HYSTERIC GLAMOUR」で働いていて、その関係でウチの店に私物なんかを委託してくれる様になったんです。それに、「HYSTERIC GLAMOUR」の母体であるOZONE COMMUNITYの名古屋の人も、ウチのお店に私物を委託してくれて、それを機に“ヒス”色を強めていって、言わば専門店的な感じで認知される様になると、調子が良くなっていきましたね。

ー委託だと、アパレル経験のない場合でも仕入れのリスクが押さえられたって事ですね。

そうですね、もちろん委託にする事で、こちらの儲けは少なくなってしまうけど、人気ブランドのアイテムを並べておくと、そのブランドが好きな人も来店してくれて、その人が不要になったアイテムを売りに来てくれる相乗効果ができましたね。最初は値段の付け方も分からなかったけど、だんだんとやりながら覚えていきました(笑)。

『VIOLET BLUE』 代表 三浦敦史ーそうなると、利益もどんどん増えていったんですよね(笑)?

う〜ん(笑)、どうだろう!? サラリーマンの時よりかは儲けている“感じ”はしましたけど。月の売上のお金を目にすると、そういう感覚にはなりましたね。実際、売上だから仕入れなどの経費を差し引かなきゃいけないんだけど、儲けてるのかなって、気分が大きくなったのは確かですね(笑)。

ー「HYSTERIC GLAMOUR」専門店的なお店から現在の流れに至ったのは?

ブルックリンヴィレッジで3年ほどやって、それからこっちに移転してきたんですけど、こっちに移転してからは徐々に現在の様な形に。ブランドの人気の上がり下がりもあったり、扱っているアイテムの影響もあって、徐々にロリータ系やゴシック系の色が強くなっていきましたね。

ーなるほど〜。最初以外は、大きな危機もなく順調にきている印象ですが、実際はどうなんですか?

うん、今のところ大きな危機もなくきていますね。資金面も仕入れ面も特に困ったっていう事はないです。小さい事は色々とありましたけど、それはどのお店も一緒だと思うので。

ー成功者の証である高級外車…羨ましいです。ちなみに結婚はいつされたんですか?

1月に店をやり始めて、その年の10月に結婚。ちょうど、その10月くらいに軌道に乗り始めたんですよ。「よくそんな状況で結婚したね」って言われるけど、店がダメになろうがどうしようがって事よりも婚約をしていたから。でも、嫁さんにしてみれば、不安だったと思う。でも、反対はしなかったかな。開店資金も300万円くらいで、大借金をしてって訳じゃなかったからでしょうね。もちろん、300万円も大金だけども、決め台詞は「新車のマークⅡを買って廃車にしたと思えば良いじゃん」って。それで納得させましたよ(笑)。

ーなるほど(笑)。では、古川さんから三浦さんへのみっつの質問にお答え下さい。ひとつ目「何故、そんなに「DOLCE&GABBANA」が好きなんですか?」

う〜ん(笑)。どうして好きなのか分からないし、正直そんなに好きじゃないかも(笑)。ファッションにそれほど興味がある方じゃないし、有名ブランドを着ておけばOK的なスタンスが出ているだけです(笑)。時計と言えばロレックス、車と言えばベンツ…みたいな。そんな流れですよ。もちろん、最初の頃は「DOLCE&GABBANA」に魅力を感じて買っていたんですけど、今ではブランドに頼って、全身揃えちゃってますね。見栄と虚勢を張っているんですよ、いつも(笑)。

ー“見栄と虚勢”…そう言い切れる潔さが素晴らしいです。ではふたつ目です。「酒癖の悪さを自覚していますか(笑)? 」…大須で指折りだとお聞きしました(笑)。

自覚していません!! 酒癖、悪くないですから(笑)。ただ、楽しく飲んでいるだけですよ。もちろん、泥酔して記憶を無くしたりする事はありますけど、そんなに頻繁に飲む方ではないんですよ。自宅でもあまり飲まないですし、外でも月に2回くらいですから。…だから、なんでしょうね(笑)、慣れてないんでしょう、酒の場に(笑)。

ー大須の知り合いの方や友人と飲みに行く事もあまりないですか?

そうですね、自分から誘って出掛けるって事が少ないので、あまり無いですね。商店街の会議の後に缶ビールを飲んで、その延長で飲みに出掛ける事はありますけど。う〜ん、大須で一番仲の良い人って誰なんだろうな(笑)!? もちろん、顔を合わせると仲良くしますが、仕事や商店街の仲間としてで、友人って訳ではないかな(笑)。…強いて言うなら、ジョインクリエーションの加藤くん。

ーでは最後にみっつ目、「将来、愛娘が彼を連れて来たらどーしますか(笑)? 」です!

今4歳だからな〜、だいぶ先の事だけど、…う〜ん、ひとりで部屋の隅で泣く…と思います(笑)。連れて来た男に対して厳しく接するだとか、殴り掛かるっていう度胸も無いので、膝を抱えて泣いてると思いますよ(笑)。ひとり娘なので、余計にそう感じるのかも知れない。でも、まだ先の事だから分からないですけど。

『VIOLET BLUE』 代表 三浦敦史ー「大須をこうしたい! 」っていう願望はあったりますか?

もちろん、好きだし愛着はあるけど、正直願望は無いですね。自分自身、商売として大須に居るので、大須がどれだけ良くなって盛り上がっても、自分の店がダメだったら意味が無いですから。それぞれの店の集合体が大須なので、大きいモノ全体は関係なくて、小さい自分の店の事を考えていれば、それが結果、街の事に繋がるんじゃないかと思います。安城で生まれ育った自分としては、大須っていう街は当時から“名古屋で一番盛り上がっている街”っていうイメージでしたので、店を始める前は「こんだけ人が居たら、ただ座ってるだけで売れるでしょ」って漠然と思ってました(笑)。現実は、そんな簡単ではないですけどね!

ー大須にいる人(お店をやっている人や商店街に関わりのある人)に対してはどうですか?

尊敬できる先人達ですよね。昔からこの街にいて、大須愛もスゴいある方ばかりだし、自分の事も可愛がってくれるし、面倒見良く接してくれるので、自分も好きですね。…ただ、本音を言うと商店街の会議には出たくないですね(笑)。

ー最後にお店の今後の展望を教えて下さい!

もう1店舗っていう考えは頭の中にはもちろんあるんですが、まだ様子見ですね。以前、売上が好調な時にスゴく出店しようか迷ったんですけど、踏み止まって良かったと思ってます。委託や買取って、仕入れに関して言うと、自分でコントロール出来ないのがネックなんですよ。今だと2店舗分はキープできないので…、それに、今は業界的に下火になっている時期なので、様子を伺いながら考えていきたいですね。業態を変えてやる事も少し考えたりしていますが、どれも具体的に見えてきていないので、将来の展望は…ナイって事になっちゃいますね(笑)。まぁ、でも、60歳になっても今の店をうまくやれるかって言ったら、センス的にも年齢的にも難しいと思うので、色々とアンテナを張ってうまい事、暮らしていきたいですね(笑)。

『VIOLET BLUE』 代表 三浦敦史