(株)ファーマーズ 代表取締役 大島敏郎

ーどういう経緯で現在に至っているのか、大島さんの歴史を教えて下さい。

飛騨川の近くで生まれて、昭和30年(6歳)に名古屋に出て来た。中学校くらいからかな〜白黒のテレビだったけど、ララミー牧場、アイラブルーシーとか、アメリカの番組がドドって流れていた。画面の中でのアメリカに憧れてね〜。電化製品に至るまでが、当時の日本とは比べられないほど凄かった。子どもながらに地図でアメリカを見たら広大な太平洋の先にあって、さらに日本の何十倍という面積の土地、アメリカはすげ〜なってずっと思っていた。その後、ビートルズやローリングストーンズとか、洋楽にも慣れ親しむようになったんだけど、高校時代の当時、ドルは360円もしたから、放出品の安いモノしか買えなかった。その当時から憧れて、行きたいなぁ〜って漠然と思っていた。でも、行けない。そんな青春時代を送りながら進学の時期、名古屋の大学に行くつもりだったけど、なんとなくアメリカへの近道になるんじゃないかと思って、東京の大学に行こうと思ったわけ。それで日本大学に合格して上京したんだよ。

ー当時、大学進学をする人は少なかったんじゃないですか?

そうだね〜。就職する人が多かったからね。珍しいと言えば、珍しいかも知れない。で、大学では勉強よりも体を鍛えようと思ってね、少林寺拳法部に入部した。中・高校と運動部には入部していたんだけど、2年くらいで挫折してしまっていた。だから、今度こそと思って、絶対に辞めないという覚悟を持って入ったわけ。でも、日大の運動部っていうのは、厳しくてスパルタで有名(笑)。120人も新入生が入部したんだけど、卒業する時には30人になっていた。当時の経験が今の“なにくそ根性”として形成されたと思ってる(笑)。一学年上の兄貴の知り合いには、「そんなトコ入部したら、大変だぞ! 半端な鍛え方じゃないんだから」って心配されて(笑)、「口を聞いてやるから辞めろ」とも言われたけど、自分自身、4年間絶対にやり通すと決めたからには、最後までやり抜くって聞かなかった。地獄を味わったけどね(笑)。

ー東京で就職なされたんですか?

うん、名古屋に戻りたくなくてね、なんとか東京で就職したいなと思っていた。けれども、なかなか就職先がなかった。4年生の夏に実家に戻った時に、兄貴が新聞を持って、いいトコあるじゃないかと言うわけ。見たら、GMのセールスマン求むっていう広告が掲載されてて、ココしかないってなもんですぐに応募! そしたら合格! それで新入社員はいきなり車を販売しろって言われても売れないから、横浜にある港から世田谷の工場への輸送をさせられてた。でも、フルサイズのアメ車を運転できるっていう喜びの方が強かったね(笑)。その運転している様は、まさにアメリカってこんな感じなんだろな〜っていう錯覚すら感じさせてくれた。そうするとますます行きたくなるわけ(笑)。そうこうしていると、先輩が「ロサンゼルス郊外のタマネギ農場で働けるぞ」って教えてくれて「どこでもいいから行きたいです! 」って渡米を決意した。当時まだ25歳で体力にも自信があったからさ。

ー憧れのアメリカはどうでしたか?

若いうちに感じられて良かった。あの時に直感で渡米を決めて良かったと思うよ。金がなくて貧乏暮らしだったけれど、幸せだった。当時から入国審査が厳しかったね〜当時はキツめのパーマ頭だったから、羽田からスーツを着て行ったね(笑)。英語も全く話せなかったから、大変だったよ。経由したハワイで5、6時間以上待たされたり、踏んだり蹴ったりだったり、電話の掛け方すら分からない(笑)。やり方を聞こうにも日本人なんていないからね〜すべて自分でやらなければならなかった。苦労して辿り着いたタマネギ農場もぽしゃってしまっていて、どうしようってなったら、日本料理屋を紹介してもらって、住み込みで皿洗いの仕事をし出した。半年間そこにいて、すごく安い給料だったけどアメリカにいられる喜びの方が強かったね。

ーそこから古着やアメカジに出会っていくようになるんですか?

その後、先輩から車を売ってもらって、休みの日曜にはドライブをしていたんだ。色んな所に行ったね〜、これがアメリカか〜って感動しながら。ある時、道路沿いに車を停めてふと見たら、ジーパンとかシャツが表にディスプレイされている店があったんだよ。クリーニング屋かと思っていたら、いろんな人達が袋いっぱいにジーパンとかTシャツ、シャツなんかを詰めて出てくるんだよ。何かな〜と思って恐る恐る入ったら、今で言う古着屋の原点がそこにあった。無造作にありとあらゆるアイテムが積んであって、ジーパンが1ドル、シャツが50セントと格安だった。新品のLevi’s517を15ドルで買っていたから、すごい安いと思ったよ。全身コーディネートしても7.5ドルくらいでさ、しかも刺繍やワッペンも付いてたりして、カッコイイんだよ。だから、友達とか働き先の人達を連れて、みんなで買ってたんだ。日本ではそういう文化がなくてさ、新鮮に思えた。

ーそこですぐに古着屋を日本で開こうと思われたんですか?

当時、電話も通話料金が高くて、定期的に1ヶ月に一回とかしか日本と連絡してなくて、丁度連絡をしたら、親戚が原宿でLevi’sの501が5800円で売っているよって教えてくれて。「あれっ!? こっちなら1ドルだぞ」って思ってさ(笑)。「すごい儲かるじゃん! 」って思ったけど(笑)、すぐに出来ないじゃん。元手もないし、どう展開していくかも全く考えられなかったし。そうこうしていくうちに、東京で古着屋というのが誕生していった。当時は古着という文化が日本では根付いていなかった。うちが古着屋をやり始めた頃は、Tシャツが一番売れなかった。人が着たモノを着るのは気持ち悪いっていう意見が多かったからね。ちょっとでもシミが付いていたら、これは血じゃないかって言われたりしたからね。

ー帰国後、どのようにして出店に至ったんですか?

帰国後、一旦実家の名古屋に戻ってね。久しぶりに会うから両親も快く迎え入れてくれた。けれども、ぶらぶらとして一、二週間と月日が経つ内に、「ぶらぶらせずに何かせんのか? 」って言われるように(笑)。だから、なけなしの金を持って東京に向かったんだ。表参道に行ったら、ヒッピー達がいっぱいいて、露天商みたいにアクセサリーを売ってたんだ。「どう売れてる? 」って声を掛けたら、一日10万円は売れるって言うわけ。土日で20万円じゃん、そんな簡単なのか!? と思って、「冬はダメでしょ? 」って返したら「冬はインドに行きます」と返ってきた(笑)。暑い夏の日は軽井沢で避暑なんて言っててさ、そんな儲かるのか〜って。これを名古屋でやってやろうって思って、仲良くなって仕入れて、名古屋駅でやったわけよ。そしたら、警察来るし、全然売れない。道路交通法違反だって言われちゃってさ(笑)。そうこうしていたら、今度は猪子石の方で流行っている喫茶店があると教えてもらって。テーブルをひとつ貸してもらって広げてやらせてもらった。1976年、それが『FARMER’S』の始まり。みんなに言われたよ、「大学まで出て、コレはないだろう」、「就職先紹介してやるから」って。でも、俺はネクタイが嫌で、好きでやってるから苦にならないって言ってやった。

ーそれは売れて、順調だったんですか?

売れない、売れない! いろんな友達なり、知り合いは出来たけど、なかなか厳しかった。その一年後に息子が生まれた。まさに倉庫のような場所に店を構えさせてもらっていて、物置のようなこの環境じゃ次の冬は越せないと思って。40万円を握りしめて、東山公園から今池まで不動産屋をしらみ潰しに歩いて物件を探し回った。夢は栄だったけど、そんな金もないからね。なかなか見つからないなか、今池に4坪の物件が見つかって、月4万円、保証金12万円だって言うわけ。よ〜し、どうしよう? 隣のお店さんに「ココどうなの? 」って、「うちはアクセ屋やるんだけど」って聞いたら、面白いんじゃないっていう返事だったから、直感でココにするって決めちゃった(笑)。それが1977年。一日何千円っていう日もあったけど、物置のような店の頃から夢があった。テレビ塔の近くで店を持つんだっていう。「だから今は我慢だ」って。家族の為に働くぞってさ。

ーでも、その夢を実現させたわけですよね?

最初から数えるとかなり時間はかかったけどね〜。当時はこの状況から脱出しなきゃっていう思いが強くてさ、4.5万円のちょっと洒落た住まいから、ボロッボロの築40年の3万円の長屋にグレードダウンさせて金を浮かせたりしてたね。その余ったお金で息子のミルク代になるじゃない。そんな事は全然苦にならなかったね。そんな話と、「いつかは栄! 」っていう夢を不動産屋に話したら「いい物件あるよ〜」って言うわけさ。テレビ塔の近くの4坪の物件、すごいラッキーだった。神様はしっかり見ててくれてるな〜ってその時思ったよ。住まいをグレードダウンさせた事が功を奏したのか、そこから光が射した気がしたね。1980年、栄に出店した年。その前後にアメリカで知り合った人が一時帰国して、また戻る時に「大島さん、何か欲しいモノある? 」って聞かれた時にすぐ「古着が欲しい! 」って。あの時の1ドルの古着を思い出したわけ。船便で輸入して、問屋さんからベールごと仕入れた。諸経費込みで20万円くらいのが、一、二ヶ月すると7、80万円になる。それを一銭も使わずにまた仕入れに回して。また、大量の古着を仕入れる。いろんなアイテムが送られてきたけど、選別して販売していた。その当時、ディスコが流行っていて、そのスタッフがうちに服を買いにくるんだよ。で、ディスコのお客さんが「それどこで買ったの? 」ってなって、だんだんと認知されるようになっていった。スタッフが宣伝してくれたんだよね。

ーそのあたりから順調に店が成長していったんですね。

まさに倍々ゲームのように古着が売れていったね〜。周りの店以上にうちの人気と売上が伸びていった。その頃、中高生のお客さんだった子達が、今では古着屋だったり、アメカジショップのオーナーとか店長っていうのも面白い話だよね。彼らがうちを見て、感じて、思った事を表現しているんだろうし、そんな話を聞くと嬉しいよね。世代を超えて、親子でうちに来てくれるお客さんもいるからね(笑)。

そうやって、接客が好きで人が好きで話が好きで…話過ぎってよく言われるんだけど(笑)、そういうのが好きなんだよね。

ー寺西さんとの出会いもお客さんとしてなんですか?

いや、寺ちゃんは中川の方でお店をやっていて、共通の知り合いから、ジーパンかなにかを分けて欲しいっていう話を聞いて、普通、同業に卸なんてやらないと思うんだけど、アパレルからきた人間じゃないもんで、「いいよ、いいよ。程度の良いの持ってって」っていう事になってからの付き合いかな。櫻井くんもそういった感じでキャップを卸したりした仲。ライバル意識だったり、業界のルールなんてのは関係なかったな〜、うちは(笑)。

ーその後、同じ栄で移転をしてますよね? それはいつ頃ですか?

あれは今から20年くらい前かな。当時は2店舗出してはいたんだけど、4坪と6坪で狭いわけ! 売上もいっぱいいっぱい出してはいるんだけど、どうしようか悩んでて、知り合いの会長さんにアドバイスをもらいに行ったら、「キャパを増やせ」と。「売り場面積を増やせばいいんだよ」って言われたから、すぐに決めた(笑)。『Honey』、『CHAMPS』『FARMER’S』と、3店舗でやってたね。

ーそれから大須に来るのはいつくらいなんですか?

今から8年くらい前かな。というのも、その前の年あたりからパタっとお客さんが来なくなってしまった。なかなかレジが動かない日なんてざらにあったんだよ。なんで? っていうのは、大須の勢いが凄かった。大須と栄の距離って結構あるし、栄まで足が伸びなくなってた。それまで大須に対して俺自身、古い大須のイメージのままだったんだ。けど、ある時、母ちゃんと大須を歩いてみたら、全然違っていて、これはここでも商売が成り立つと思った。それでたまたま、グッドウィルの前の店舗が空いていて、話を聞いてみたら、「昨日出て行ったんですよ」って言うじゃない。それで「大島さんみたいにご夫婦でやられてる人に借りてもらいたいです」って言われちゃって、そうきたら「ここにしよう! 」って、すぐに決めた(笑)。一年やってダメだったら、撤退しようって思ってた。そしたら、それなりの数字だったから、栄のどこかを閉めて2号店を作ろうと。それで徐々に全部、こっち(大須)に固めたんだよ。確かに今は厳しい。けど、34年やってきて、乱高下していろんな波を味わってきたから、これも乗り越えていかなきゃならない。ダメならダメで勇気ある撤退も必要だと思うし、小さくしたって、また大きくしてやるっていう気持ちだけは持ってないと。

ーなるほど。では寺西さんからのひとつ目の質問、経験豊富な大島さんの逸話などを教えて下さい。

以前、アメリカへ家族旅行に行ったんだよ。その時、ニューオリンズのホテルに泊まったんだけど、若い頃に渡米して「ちょっと贅沢しましょうか」って泊まったホテルと同じ所でさ! 全く気付かなかったんだけど、全く同じアングルで写真を撮影しているんだよね(笑)。どっかで見た写真だな〜と思って昔の写真を調べたら、ビックリしたね。若い頃は一人で写っていて、その13年後には子どもと写っている。運命を感じたよ! あとは若い頃、先輩と車で旅をしている時、ごっつい拳銃を持ったポリスにいきなり車を停められた事だね(笑)。

ーやはりアメリカは危険ですね(笑)。続いて寺西さんからのふたつ目の質問、若者への意見、アドバイスをもらってくれと、ぜひ頂きたいです!

体を鍛えろ! って思うね。草食系になんてなるなって(笑)。健全なる心は健全なる体から生まれるもんだよ。健康だからこそ61歳になってもこれだけ話ができるんだから(笑)、ぜひ体を鍛えて頂きたい。ダライ・ラマも来日した時に「日本人は消極的だ。もっと社会奉仕しろ」って言ってたよ。世の為、人の為じゃないけど、もっとそういう心があっても良いと思う。そして、若者には夢を持てと言いたいね〜。俺たちの時は、なにくそ、なにくそって這い上がってこなきゃ、何もなかったからね。

ー勉強になります! 寺西さんからの最後の質問、大島さんの今後の目標を聞かせて下さい。

俺も今は61歳になったし、いつまでやれるかは分からないけどさ。いつまでもやりたい。この間、年上の知り合いと話をしたんだけど、「年金生活は寂しいよ」と言うわけ。「いつまでも現役でいられるほど、幸せな事はないよ」って言われた時に、ふとそう思えば、自分はまだまだ幸せだなって思ったね。若い子と話してエネルギーをもらっているし、いつまでもそうありたいね。昔からの夢は“クソ暑い夏とクソ寒い冬はハワイ”っていうのがあって、元気なうちに実現させたいよね。あとは、日進の竹の山っていう開けた所に、自分の気に入ったアイテムを並べて、コーヒー飲めるスペースなんかも作って、仲の良い友達と時間を気にせず喋る…っていう構想はあるかな。自宅からも近いし、年くってもやれると思うしさ。

ー大島さんのこれまでの歴史をまとめると、直感を信じ、己を通してきたという印象です。

いやいや、ただ、がむしゃらに来たらこうなっちゃったっていう事だよ(笑)。別にとんでもないお金持ちになりたいと思ってやったわけじゃない。そりゃ少しはあったかも知れないけど(笑)、必死に“生活をする為に”、“生活をしなきゃいけない”と思って働いてきた。ただ、それだけだよ。

…お店の看板・内装にも記載されている一文…

One man crossed the ocean to America in search of a dream…A year later. He returned… His journey ended in the summer of 1976,But his legacy began……FARMER’S
(訳:ある男が夢を探しに海を渡ってアメリカに行ったんだ。一年後、彼は帰って来た。彼の旅は1976年の夏に終わった。しかし、彼の夢は店になって続いていく、それがファーマーズさ!)