三味線屋『浅田屋』 6代目 吉田和正

 

ー吉田さんの経歴を生まれからざっと(笑)教えて下さい。

昭和31年にここ(大須)で生まれてから、ずっとここ(大須)で育った。それで、ウチが江戸時代の享和三年(1803)から続く三味線屋。そのせがれとして、4人兄弟の末っ子に生まれたのに、なぜか小さい頃から親父に「お前が跡取りだ」と言われてきたんだわ。一番上は姉さんで、長男は婿養子、下のふたりが家に残って、しばらく三味線屋を手伝っていたんだ。その頃、俺が中学から大学の頃かな、その頃はまだ三味線屋が忙しかった時代でさ、宅急便も普及してない時代。だから、東京のお客さんには直接納品していたもんね。新幹線に乗って、納品しに行った帰りに代金を貰ってくる。まだ高校くらいの俺が400万円くらいの現金をそのまま持って帰ってきていたからね(笑)。なんか買ってやろうかとも思ったけど(笑)、そこまでの交通費をお客さんがくれるから、そのお金で服を買ったり遊びお金に使っていたかな。あの頃はめちゃんこ良い時代だった。

ー高校を出てからはどうしていたんですか?

大学は東京の駒沢大学。あそこは坊さんの学校でね、お寺の子が多くて、当時付き合っていた彼女も和歌山の方のお寺のひとり娘さんだった。その親御さん、俺が三男坊だと知ったら、親父のところに「息子さんを婿養子に欲しい」と口説きに来た(笑)。まぁ、その後いろいろとあった結果、結局お寺の跡取りにはならず、横浜に住み込みの修行に行かされたんだわ。けれども、1年半過ごした頃に親方が病に倒れてしまって、「もう教えられないから、親父さんのところに帰りなさい」と言われちゃってさ。名古屋に帰ったところ、親父からは「お前がケツ割っただけだろ」って怒られて、どっちからも受け入れられなくなっちゃてさ。その時、俺、いい歳して泣きながら新幹線乗った覚えがある(笑)。横浜に帰って親方に事情を説明したら、「それなら手紙を書く」って言ってもらえて、ようやく家に帰れた。その後はまた親父と一緒に三味線屋の仕事をしていた。昔で言うと、三橋美智也なんかの三味線もウチで修理していた。あとは津軽じょんがら節で有名な木田林松栄とかもお客さんだった。

ーさすがは老舗中の老舗ですね。けれども、聞いたところによると吉田さんはいろいろと違う分野の事もやられてますよね?

そう、そんな三味線屋の息子がどんな半生だったかと言うと(笑)、徐々に時代も流れて、三味線屋が三味線だけで食っていくのも限界が見え始めてきたんだよ。で、親父から「お前は大学時代から海外にもいろいろと行っているし、おもしろい事を見つけるのが得意だろ!? 新しい仕事を見つけてこい」って言われてさ(笑)、「えぇ〜! 」って感じだよね(笑)。で、俺も三味線屋のせがれだけど、洋楽が好きだったり、別に海外は嫌いじゃないし、「行かせてくれるなら行くけど」って、それで「半年だけ暇をやるから」って言われて、28歳の時にアメリカに渡ったんだわ。大学時代からよく海外には行ってたから英語はなんとなく喋れたんだけど、やっぱりカッコ良く喋りたいじゃん(笑)。だから、学校に通おうと思ったけど、お金もないから学校に行けなかったんだ。

ー確かにカッコ良く話したいですね(笑)。それからどうしたんですか?

サンフランシスコは、市が無料で英語を教えてくれる学校があったから、そこに入学した。でも、その学校は夕方からだったから昼間する事を探さなきゃいけないじゃん。そしたら、海外で外国人相手に英語を教える英語教師や英会話講師を育てる養成所の生徒役を募集していたから、そこの生徒役を昼間にやっていた。その生徒役ってのが難しくて、英語が全く分からなくてもダメで、完全に理解できてもダメ、講師達の練習になんないから。ちょうど俺くらいの語学力の人を探していたみたいだから、むこうもこっちも都合が良くて(笑)。昼間も夕方も両方とも無料で、あとは自分の好きなお店を回ったり、メキシコやバハマに行ったりして、うろうろしていた。それで帰国して、「なんか見つかったか? 」って言われたから「なんとなくね」って答えて(笑)。その後に本山に『コレクション』っていう物販のお店をオープンして、5、6年商売した。俺が28、29歳の頃って、まだ「吉田カバン」なんか有名じゃない頃なんだけど、自分自身好きで愛用していたんだ。だから、お店でも扱いたいなと思って、なんとかルートを探してお店でも扱っていた。「Swatch」や「BRAUN」の時計なんかも置いていた。あとはインテリア向けのアートポスターも売っていたかな。その頃に、『FARMER’S』の大島さんとも出会った。25年くらい前かな〜。後になって分かるんだけど、『バナナレコード』の田中さんや『HARLEMSTORE』のテラさんとか、今大須にいる顔役の人達がみんな本山にいたんだよね。

ー不思議な出会いですね。その後はどういう感じですか?

そうこうする内に跡取りの話がまた出てきて、店をたたむ事にした。それでまた親父と仕事をするようになるんだけど、俺の仕事の仕方が気に入らないと言い始めてさ(笑)。衝突しながらもやってたんだけど、ちょうど三味線屋の仕事量もそんなに多くなかったから、お店を半分改装して写真屋を始めた。それが38歳の頃かな。ところが、5年くらい経ったらデジタルカメラが出始めて、銀塩写真も下火になってきて、続けるのもどうかなって思い始めて。どえらい高い機械や機材も入れてやってたんだけど、もうやめる事にした。ちょうどその頃、兄貴が春日井で子ども服屋をやり始めて結構うまくいって、写真屋だった空いたスペースで大須店をやりたいっていう話になったから、俺に手伝えと。人と話すのも好きだし、子どもも2人いて、子育てママとの会話も苦にならないと思ったから、やる事にした。

ーあれっ!? どのタイミングで結婚なさったんですか?

本山で商売をやり始めてすぐの頃かな。当時もう30歳でさ、親父からも「いいかげん良い人いないのか」って言われてて(笑)。トントン拍子で結婚になったわけ。

ーなるほど。続きは子供服屋さんを始めるところですね。

そんなこんなで、兄貴のお店を手伝う形で大須で子ども服屋をやり始めるわけ。“いわゆる子ども服”ってモノじゃなくて、大人の服の焼き直しとでも言う様なモノを扱ってて、割と評判良く売れたんだわ。おもろい服を作ってるメーカーとやり取りしていたから、若いパパ・ママの評判は良かったな。けれども、持病の投薬の影響でずっと体調不良が続いてさ、しんどくて、しんどくて。そのお店もひとりでやっていたから、休むに休めなくて。10kg以上やせ細りながらもやっていたんだけど、大須店は閉める事にしたんだわ。で、空いたスペースをどうするかって話になったから、建て替えてビルにしようと。それで1階と2階はテナントとして貸し出すようになった。それが5年くらい前かな。

ーそれが今の建物ですね。本山のお店→三味線屋→子ども服→テナントときまして…

テナントをやり始めたらやる事無くなっちゃって。でも、大須の街でいろんな人に会う度に「そのまんまじゃボケるよ」、「なんかやらな〜」って言われて。「なんかないかな〜」って思った時に、“ともしびアパート”が始まるって聞いて。ちょうどその時、大須のみんながよく集まっていたバーがなくなっちゃって、「なんか他に集まれる場所ないかな〜」ってみんなが言っていたから、「じゃー俺がやる! 」って軽いノリで手を挙げちゃった(笑)。好きなベトナム料理のお店を“ともしびアパート”内でやろうと思って、頑張って改装して、なんとかやり始めて、なんだかんだ言いながら2年はやったかな。その後は今年の2月からビルの3階で同じ様なお店をやり始めた。

ーそんな流れで現在のお店になるわけですね。

元々、3階は飲食用に作っていなかったから、それ用に改装してさ。そうそう、“ともしびアパート”でお店をやっている頃によく来てくれた名工大の学生が、「改装するなら手伝わせて下さい」って言ってくれて。3Dの完成イメージなんかもパソコンで見せてくれてさ、すごいしっかりやってくれた。クソ寒い中、毎日5、6人の学生が来てくれて、内装もよく見るといびつだけど(笑)、設計から内装工事までやってくれたんだわ。今は、隠れ家的に営業している感じ。商売だからもっといろいろとやるべきなんだろうけど、席も少ないし、狭い。お客さんからも、気心の知れた仲間や知り合いの集まる憩いの場としてのニーズが強い。だから、大々的に看板も出していなし、インフォメーションはもしていない。ここはここで今のままをキープしつつ、別の場所でベトナム料理のお店をやりたいなっていう思いはある。屋台みたいなものでも良いし。

ーなるほど。ところでなぜベトナムなんですか?

若い頃から東南アジアを中心に旅行して、タイ料理はちょっと口に合わないなと感じた。あの酸っぱ辛い料理がどうもダメ。インドも辛いカレーがダメだったな。でも、ベトナムはなんかハマった。最初はパクチーもダメだったのに、今ではないとベトナム料理じゃないなって思うくらい。だから、暮らしたいと思うのはベトナムだもんな。もちろん、アメリカも好きだし、メキシコも魅力的だけど、治安が心配。その点ベトナムは安心。ベトナムはまずホールドアップなんて事は有り得ないから。極端な話、ベトナムなら何食ってもうまい(笑)、それに生活費の安さ。観光客が行く店よりもそこら辺の屋台の方が断然うまい! 将来の夢はベトナムが乾期の時期に向こうにいて、雨期の時期に大須で祭りをやりに日本に帰ってくる(笑)。そんな生活がしたいな〜。

ー前回の古謝さんから吉田さんへの3つの質問の中に「今まで行った国の中で一番面白い所は? 」と頂いてます。

う〜ん、今までに行った国は、韓国、台湾、香港、タイ、シンガポール、カナダ、インド、インドネシア、ネパール、アメリカ、メキシコなどなど。でもヨーロッパは行った事ない。その中でもやっぱベトナム。東南アジアは若いうちにしか行けないと思っていて、いざ行ったらハマっちゃって、ヨーロッパには行けてない。…インドはなんで行ったかというと、三味線の素材がインドにしか生えてない木だから。そうそう、三味線って不思議なんだけど、日本の楽器なのに、何ひとつ国内で材料をまかなえない楽器なんだわ。まぁ、糸だけは国内で作れるけど。そもそも歴史もそんなに深くなくて、安土桃山時代に入ってきた楽器を元に作られている。南蛮貿易の時に船積みでテーブルを輸入して、壊れて猫足の様になったテーブルの脚を流用して作り始めたのが三味線の原型。そんなこんなで三味線の材料ってのは、ラムサール条約やらワシントン条約なんかで、輸出入が制限されているモノばっかり。そんなところもさっき「三味線には先がない」って話したところに関係するんだけど。みんなが三味線をやらないと三味線屋なんて食べていけない。「文化として残っていく、残していくべき」なんて言うけど、商売として成り立たなければ意味がないよ。

ー勉強になりました。ところで、前回の古謝さんと知り合うきっかけは?

古謝くんの前に、『甘藍』の前オーナーの前田くんと先に知り合いで。でも、その前田くんが2年前に亡くなってしまって。前田くんとの出会いは写真屋をやっている頃。ちょうど「『甘藍』を始めたから食べに来て下さい」って言われて食べに行ってからの知り合い。その後、商店街連盟の会合の二次会なんかでもお店に食べに行く様になったり、俺のお店のアドバイスを貰ったり、個々での付き合いもしたりと、仲良くさせもらっていた。で、何年か後に古謝くんが『甘藍』に入ってきたのかな。当時の印象は、「厳ついヤツが入ってきたな」って(笑)。でも、話してみると海外や音楽の話で、年齢も離れているのに妙に話が合ってさ。それから仲良くなったね。「アメリカを放浪した時に生でボブ・マーリーを見たよ」って話をしたら食いついてきた(笑)。

ー共通の話題で仲良くなられたんですね。では、その古謝さんからふたつ目の質問、「今まで一番ヤバいと思った事は?(いろんな意味で)」を教えて下さい。

う〜ん離婚かな。いろいろと問題があったわけで…、詳細は公にしないで頂きたいですが(笑)。
ーーー(ディープなお話なので割愛させて頂きます)ーーー
まぁ、そんなこんなで人生のなかでも一番大きい出来事だったかな。でも、子どもには「いつまで経っても、お前達の親は俺達しかいないんだから」って言うと共に、いつまでも面倒をみていこうと思った。今でもよく連絡を取り合うし、娘も彼氏ができたと教えてくれるし、息子とも下ネタバンバンで話せる(笑)。趣味や音楽、服の話なんかも話が合うし、関係は良好だと思う。離婚は良い事だとも悪い事だとも言わないけれど、親の勝手で子どもに迷惑を掛けた事には変わりないから。…まぁ、俺がいかんのだわな。あとは、アメリカで黒人に追いかけられたり、空港で荷物を持ってかれそうになったりした事。海外で問題が起きたり、カチンときた時は、日本語で捲し立てるに限る(笑)。悠長に英語で「Excuse me.」って言ってる場合じゃないよ。言葉は通じないけど、伝えたい事は感情や迫力で伝わるから。

ーありがとうございます。みっつ目の質問は「昔から今までで、大須の変なお店・スポットを教えて!」です。

俺が子どもの頃は、一色町の方から籠をぶら下げて魚の行商なんか来てたよ。昔はいろいろなお店があったなぁ。……最近は変な店がないからな〜(笑)。冒険しなくなったのかね〜最近は。大須の街っていつの頃からか家賃が高くて、若い子達が店を出し辛くなったイメージが付いちゃったよね。その中でも、今でもおもしろいな〜って感じるのは、『百老亭』の横の路地。あそこは時々覗きに行きたくなる。1席しか置いてない美容院とかさ、ギャラリーとか水タバコ屋なんかもあって面白いよね。昔は大須にも古い旅館があって、修理を待つ間、そこにウチのお客さんが宿泊していた。東京から木田林松栄が来て、「明日までに直してくれ」って張り替えを依頼されて、直した三味線を翌日の朝に届けたりって事もあった。あと、俺らが子どもの頃には、お好み焼きとか玉せんを食べられる駄菓子屋もあったな。そこに、近くのバーやクラブのお姉さん方がカーラー巻いたまま来て、特製のまかないみたいなモノを食べてたな。子どもながらにそれを見て、「いいなぁ、大人になったら俺も頼もう」って思ってた。変わったな〜大須も…でも、たまにウチの屋上から大須を見ると「古いな〜」って思う。瓦屋根の建物ばっかりだもん。歴史や文化も大切だけど、通りや商店街、商売をしている外国人やそれぞれのお店の隔たりをなくして、みんなで盛り上がれる祭り、街を創りたいよね。