CLAMPNODE 代表 山内建吾

ー山内さんの簡単な経歴を教えて下さい。

名古屋で生まれて、名古屋で育った。最初は建築、それで大工、鳶などを自分で経営していて、そこにいた若い者を独立させて、ひとりで家具や什器、今では革を作っているかな。大分、省略しているけど、こんな感じだね(笑)。

ーではもう少し詳しく聞かせて頂きます(笑)。建築や内装時代に手掛けた案件の中で思い出すエピソードは?

主な所だと矢場町のガスビルや東京の「wjk」。「wjk」はひとりで受けて、自分だけのデザインでやったから、あれは面白かった。あとはツインタワーにも携わった。でも、その時に両足骨折(笑)。ワンフロアが普通のビルの2階分の高さなんだけど、そこから落ちたんだわ。痛いけど歩けない程じゃないから、歩いて病院まで行って診察したら両足骨折。もちろん車椅子。そう、車椅子って、なかなか乗るのが難しくてさ、大変だったけど、2ヶ月で極めた(笑)。大分速くなったし、ウィリーも出来る様になった(笑)。いつの間にか、そこの病院に入院している若い子達とも仲良くなって、そこのボスになってた(笑)。その後退院したけど、もう現場には立てないと思ってた。そしたら親戚の兄ちゃんに、「建築現場の若い従業員の面倒を見てくれ」って言われて「リハビリがてら行くよ」って。行ったら、その子達があまりにも出来ないから結局自分で動く様になっちゃって、本当のリハビリになってた(笑)。その後に新しく立ち上げた会社には、入院時に仲良くなった若い子達3人くらいが気付いたら入社してた(笑)。

ーやはり親分肌なんですね(笑)。

その頃は人間としてダメな所が多かったと思う。会社経営の時は社長だから「俺は稼いでいる」って、ふんぞり返ってもいた。上から指示を出して、雑務は取り巻きがすべてやってくれる。でも、その時にいろいろと人間関係のごたごたがあったんだわ。当時はそれも全部人のせいにしていた。あいつのせいだとかあいつらが悪いとか。でも、結局は自分が入れた従業員だし、自分が蒔いた種。だから、自分が悪いんだと。そうやって、フッと気付いてからは反省して、前向きに動き出せた。今思うのは、ひとりで動き出したら全部自分がやらないいけないし、誰もやってくれない。今さらながら当時の下の者の気持ちが理解できるわ。

ー結構、落ちていた時期があったんですか?

それまでの自分には、人間関係で悩むなんて想像出来なかったんだけど、あの時は誰も信用出来なくて、プチうつ状態。その時に樫森さんっていう今でもお世話になっている人に救ってもらった。落ちている時期でも、なぜかその人には会えた。元々知っていたんだけど、そこまで親しくしていた訳では無かった。でも、不思議と導かれる様に会いに行ってた。ここのショップもその人のおかげ。什器を提供してもらったり、色々と世話してもらって、今のショップが出来上がってる。

ーなるほど。では、建築系から革職人へと進む様になったきっかけは?

それは、マンションのリフォームを手掛けた時に、お客さんから扉とか色んな所に革を張って欲しいっていう要望をもらってから。それから、余った革で自分のかんな用にケースを作ろうかなって思って、そのケースを作ってみたら、すごく良い感じに仕上がった。それから「なんか良いな革! 」って思う様になった。でも、人に教えられるのが嫌な性分だから、自己流で覚えていったんだわ。やっていくうちに、「革の組み立てって建築と変わらん」って事に気付いて、どんどんハマっていった。そしたら、幼なじみから、「財布作れるんじゃない!? 」って言われて、そのきっかけで作ってみたら、作れちゃった(笑)。その時くらいから、前世は革職人なんじゃないか(笑)ってくらいスーッと革にのめり込んで行った。

ーそのまま完全に革職人へとなっていったんですか?

そのきっかけが今から4年くらい前に。そこから興味を持って、仕事やりつつ帰ったら革をいじる生活。カービング(革を彫って模様や絵を描く)っていうモノにもその頃出会った。元々、絵を描くのが好きだったから、売っている他の綺麗に仕上がっているアイテムを見て、「なんでこうやって出来るんだ? 」って疑問に思いながら、またそこからのめり込んでいった。

ーそれで大須に店を出したわけですね?

うん、そうこうしていたら店をやらないかって話がきたんで、最初は仲の良い5人を誘って、建築系を踏まえてやるつもりだった。だけど、何屋なのかわからないって事で他の4人とは離れて、最近、革のアイテムをメインとしたショップとしてリニューアルしたんだわ。そもそも15、6歳の頃から大須で店を持ちたいっていう思いはあった。昔、大須で親父が働いていたから、小さい頃から大須には来ていた。大須は下町でいわゆる“昭和”っていう感じや“古い”っていう感じ、あとはうまく言えないけどそこにいる人の人柄や“大須”っていう感じが、ただただ好きだね。自分が若い頃の大須の魅力と言えば、来るとお金が入る、儲かる(笑)っていう感覚で、細い路地が大好きだった(笑)。まぁ、それは冗談として(笑)、その時、自分が13〜16歳くらいだから、20年くらい前か。語弊があるかも知れないけど、本当にある種、ギラギラした若者の街、パンクやヘヴィメタのゴツい奴らがいる、大須=怖い街って思う子もいた時代だった。今ではそういうイメージじゃなくて、老若男女様々な人が訪れて、活気ある街。そんな感じで馴染みもあるし、姉さん夫婦が近くで喫茶店をやっていた繋がりもあり、今の場所が空いたっていうタイミングもあったから、店を構える様になった。もちろん、今でも建築系の仕事は受けている。メインはこっちの革屋だけど、お客さんが付けば、内装もやる。

ーなるほど。では、色々な革製品がありますけど、主に扱うのはどんなアイテムですか?

まだやってないのは、服や凝ったデザインのバッグ。それ以外の小物系は今でも結構ある。でも、ミシン物はやらない。手縫いばかり、手縫いなら直せるし、直せば革は一生愛用出来るからね。昔、革製品を直して欲しいと店に持って行ったら、直せないって言われた。そんなもどかしさが自分にはあるから、うちのお客さんには、そんな思いをさせない様に修理も行っている。他店で買ったモノでも、自分が直せる範囲なら受けている。ずっと使える相棒だから、革製品は。あだ名が“アニキ”っていう人がいて、フランスのアンティーク什器なんかを扱っている人で、その人が服などを卸してくれている。まだまだ僕らもショップとしては駆け出しなんで、助けてもらいながら。

ーでは山口さんからの質問に答えて下さい。「謎に包まれたプライベートを教えて下さい! 」

そんな謎でもないよ(笑)。プライベートね〜お店終わって家帰って、メシ食って風呂入って寝る(笑)。そんくらいかな。休みにはバイクでどっか出掛けたりする事もあるかな。多い時はうわーっと何人かでツーリングも行くしね。昔からバイクが好きなんだわ。

ーでは山口さんからふたつ目の質問、「強面な風貌からは想像できない作品の精巧さはなぜ? 」

(笑)。そうか、みんな構えちゃうのは、そうやって(怖いと)見られとるからなのかな。こっちは普通にしてるだけなんだけどな。結局、姿形はどうでも良い、内面だよ。物作りが好きだから、こだわって作っているだけなんだけど、そのおかげで細かい所まで突き詰められているかな。でも、豪快に見られがちだけど、内面は繊細だよ(笑)。仲の良い人は作品以外でも、自分の繊細さに気付いていると思う。

ーみっつ目です。「そもそも何者ですか(笑)?(ルーツや少年時代など)」

何者って、う〜ん…動物(笑)、人間は確かだわね。う〜ん、ルーツね。育った場所は西区、北名古屋、小牧、で、今は緑区。ひとり暮らしは早かったな、15歳。デザイン専門学校に通ってて、いろいろあって辞めたら、「家を出てけ」って言われてひとり暮らし。住み込みの仕事をやったり、いろいろと転々としたね。いわゆるツーリング仲間(笑)が集まり過ぎちゃって、追い出されたり(笑)。仲間の家に転がり込んだり、家も転々としていた。だから、緑区の方が地元って感じかな。

ー昔からゴツかったんですか?

いや、昔は華奢だった。空手を小さい頃にやってて、ボクシングは18歳から2年くらい。そのおかげで強くなれたかな。でも、小3くらいまではいじめられっ子だったからね。そしたら、空手を習わせられた。それで、入って1ヶ月くらいの時に組み手をやったら、年上の黒帯の子を上段回し蹴りで倒しちゃって、それから変わった。今までいじめてきた子達を可愛がる様になった(笑)。そしたら、みんながビビる様になっちゃって、まともに付き合う奴らがいなくなっちゃった。だから、それから中学の間は対等な友達がなかなかいなかった。その後、高校の時に出会った奴らはまともに接してくれたから、そこから今でも交流のある友達が増えていった。

ーでは最後に、今後の目標やこうなりたいというビジョンは?

新しいバイカーのアイテムを作りたいかな。ゴツくも無く、キレイなだけでもない。例えば、アメリカンとヨーロッパの融合、とにかく新しいモノを作っていきたい。でも、それが一番難しいわ。知らないうちに見たモノに寄っていってしまう自分もいるし、自分の描いた絵を万人に受けて入れてもらいたい気持ちもある。だから、ただ単にむさ苦しい感じだけじゃなくて、女性にも受け入れられる様なモノとか、もっと間口を広めてやっていきたい。あとは、ヨーロッパのアンティークも扱いたいし、内装業ももっとやっていきたいかな。