有限会社バナナレコード 代表取締役 田中秀一
ーこれまでの経歴、現在に至るまでの経緯を教えて下さい
やっぱり、小さい頃からプロのミュージシャンになりたくて、一生懸命やってたんだけどいろいろと壁があって、就職の時は長い髪を切っていたから、今の長い髪ははその復讐なんですよ(笑)。僕らが子どもの頃っていうのは、GS(グループサウンズ)の人気が凄かった。それを見たり聴いたりして、高校、大学と進むにつれ、より音楽に対する探究心が高まっていったんですよ。それでも欲しいレコードが名古屋では手に入らないもどかしさはあった。大学を卒業し、音楽の道を諦めて文房具の会社に就職。それですぐ大阪に転勤になったんです。その時、軽いカルチャーショックを受けましたね〜若者のいきいきとした表情や活発さ、それとレコード店の多さに。「同じ時期に日本に生まれたのにこの違いはなんだ?…
(株)ファーマーズ 代表取締役 大島敏郎
ーどういう経緯で現在に至っているのか、大島さんの歴史を教えて下さい。
飛騨川の近くで生まれて、昭和30年(6歳)に名古屋に出て来た。中学校くらいからかな〜白黒のテレビだったけど、ララミー牧場、アイラブルーシーとか、アメリカの番組がドドって流れていた。画面の中でのアメリカに憧れてね〜。電化製品に至るまでが、当時の日本とは比べられないほど凄かった。子どもながらに地図でアメリカを見たら広大な太平洋の先にあって、さらに日本の何十倍という面積の土地、アメリカはすげ〜なってずっと思っていた。その後、ビートルズやローリングストーンズとか、洋楽にも慣れ親しむようになったんだけど、高校時代の当時、ドルは360円もしたから、放出品の安いモノしか買えなかった。その当時から憧れて、行きたいなぁ〜って漠然と思っていた。でも、行けない。そんな青春時代を送りながら進学の時期、名古屋の大学に行くつもりだったけど、なんとなくアメリカへの近道になるんじゃないかと思って、東京の大学に行こうと思ったわけ。それで日本大学に合格して上京したんだよ。
ー当時、大学進学をする人は少なかったんじゃないですか?
そうだね〜。就職する人が多かったからね。珍しいと言えば、珍しいかも知れない。で、大学では勉強よりも体を鍛えようと思ってね、少林寺拳法部に入部した。中・高校と運動部には入部していたんだけど、2年くらいで挫折してしまっていた。だから、今度こそと思って、絶対に辞めないという覚悟を持って入ったわけ。でも、日大の運動部っていうのは、厳しくてスパルタで有名(笑)。120人も新入生が入部したんだけど、卒業する時には30人になっていた。当時の経験が今の“なにくそ根性”として形成されたと思ってる(笑)。一学年上の兄貴の知り合いには、「そんなトコ入部したら、大変だぞ!…
有限会社POLICE 代表取締役 寺西儀高
ー出店するまでの寺西さんの経歴を教えて下さい。
学校卒業後、外車の会社に就職しました。結構大きな貿易会社だったんですけど、自主廃業してしまった。やっぱり車は売るモノでも直すモノでもなく、乗るモノだと。その次に好きなモノはなんだと、自分の中で考えた時に洋服だと。それで、洋服に携わる仕事として、名古屋にあるメーカーに7年勤務しましたね。ちょうど、入社する時にそこの社長に、「27歳で自分の店をやりたいので7年修行させてくれ」と頼んだんですよ。営業やら何やら、色々な事をさせてもらった。オーナーやバイヤーの方達と様々な話をする中であらゆる事を教えてもらいましたね。
ーそれできっちり27歳の時に独立された訳ですか?
そうですね。最初は名古屋市中川区に『ポリス』というお店をオープンさせました。当時は、「他と同じ事をしてもお店の個性が出ないし、他店との差別化を図れない」。ならばという事で、昼の12:00から夜の0:00までの営業時間で、10年間はそのまま営業したかな〜。まだ、名古屋にそんなお店は2、3軒しかなくて、珍しかった。そもそも当時の形態が倉庫のような造りで、その中に夜はバーにもなる喫茶店があったり、そんな事もあったから実現できたのかも知れない。だって当時のお客さんのピークは21:00〜22:00だったもんね。午前中なんて誰も来なかったから(笑)。どこに行っても同じようなアイテムがあり、どこに行っても同じような時間帯っていうのが、自分に取っては「?」だったから、他とは違う所で勝負していかないとって思っていましたね。
ー他と違う事をするって事で無理もあったでしょうね。
年中無休の12時間営業で10年間、よく体がもったなぁって、今となってはそう思います。で、色々な話があって、その後は本山に移転したかな。ちょうどアメ村のハシリだね〜あの頃は。その次は栄、たての街の1階でやって、次は岡崎のメルサ。やっぱり本山のアメ村の形態が面白いという事で岡崎でもやってくれという事で、本山のメンバーがごっそり岡崎に行ったんですよ。メルサの4階でやってましたね。当時は岡崎の街自体を活気づかせた存在だったんですよ。それと同時に悪い噂も挙ってしまったけど(笑)。ワルのオーナー達が岡崎を荒らしているだとか、女・子どもが歩いていればひどい目に遭うぞとか(笑)。本山の時もそんな噂がありましたからね。当時の中学高校の若い子達の親御さんからすれば、そんなイメージだったんでしょうね。
ーその後、大須にお店を構えたんですか?
そうですね、万松寺通りのブルックリンヴィレッジというビルの中に構えました。前々から大須の街に興味があって、視察には何度も訪れていたんですよ。偶然、テナント募集の張り紙があった縁で6年間お世話になりました。そこもすごく良かったんだけど、やっぱり路面店の方が人の流れもあるし、魅力があったという事もあって、探したら今の場所が空いていたので、移転しました。以前はスギヤマ薬局さんがあって、たまたまうどんを食っていたら、出るっていう話をうどん屋のおばちゃんから聞いて、すぐに飛びつきましたね。あの時うどんを食べていなければ、ここにはいないかも知れない(笑)。それが7年前の出来事。
ー20年以上前、営業マンをされている時だと思うんですが、紹介して頂いた櫻井さんとの出会いがありましたよね?…
株式会社スミス 代表取締役 櫻井敦夫
ーお店を始められた経緯を教えて頂けますか?
19、20歳頃に初めてアメリカ・西海岸、メキシコに行って刺激を受けまして、その時はまだ“何か”っていうのは、はっきりしていなかったんですけど、表現であったり、自ら発信していきたいという願望があったんです。3年ほど会社勤めもしまして、アメリカのニオイのするファッションを紹介、販売していきたいなぁと、それで28年前、その当時としてはまだ若い、25歳に独立したんですよ。まだ、名古屋にはそんなショップがなかったんですよ、数店しか。今でこそいっぱいありますけど。
ーその頃から、今のようなセレクトショップという形態でしたか?
いわゆるアメカジのショップでしたね。そこからすぐにインポートのアイテムが徐々に衰退していくんですよ。日本の商社がブランドを買って、中国で生産するスタイルが主流になり、アメリカブランドの少ロットのアイテムが姿を消してしまう。その当時、うちも迷ったんです。レプリカの方なのか、オリジナルの方なのか。ちょうどその時(28歳頃)に『HOLLYWOOD…
weicheBrise プロデューサー NALさん
ーNALさんの経歴を伺いたいのと、岸さんからの質問にもある、バンド・ベースを辞めた経緯を教えて下さい
高校を出て、バンドでメシを食えたらいいな〜と思ってました。当時はバンドブームがすごくて、なんとなくなれちゃうんじゃないかぁって。けど、だんだんレベルが上がるにつれて、自分の音感の無さが気になってしまって、これはちょっと無理だろうと。ある程度のところまでは、手先の器用さでやれていたけど、やっぱりそれじゃダメでしたね。もう東京にも出ていて、22〜23歳くらいの頃だったかな。その頃のメンバーは、僕とヴォーカル以外、音楽でメシを食ってますね。
ーそれからすぐに現在のような活動を始められたんですか?
わりとすぐに始めましたね。音楽以外でも何か表現する仕事がしたかったので。たまたま作ったのが革で、「できるじゃん!」って。当時は革、スタッズっていうのものがバイカー以外からの人気を得ていなかったので、違うカタチで表現できればいいなと。自分がバイクに乗らないので、「じゃーロックだ!」と。アーティストの衣装なども作ってという要望もあったので。
ー始められた当初の周りやお客さんからの反応はどうでしたか?
意外に、お店に置いたらすぐに売れてしまって、当時はまだ副業感覚でブランドやっていたけど、すぐに本業の給料を抜いちゃってた。こっちを本業にするのはいつでもいいなって。でも、結婚していたんで、もっとしっかりと道筋が見えるようにしなきゃな〜と思って、それでお店を始めました。25〜26歳くらいには、この仕事でやっていけるって思えましたね。
ーブランドの印象とお話の感じからすると、順調そのものといったイメージですが、一番の苦労は?
1999年にある日突然結核になったことですかね。有無を言わさず病院に強制収容(笑)。半年くらい仕事ができなくて、当時はこのままイケるな〜って思ってたのに、そこでの半年のブランクが大きかった。退院後には、オーダーも来なくなってて、「うわ〜終わった」って感じでしたね。でも、大きな事はこの一件くらいですね。細かい事を挙げたらキリがないと思うけど、始めた頃から今の今まで楽しく、自分のやりたい事がやれているので、苦労はないですね。
ーNALさんと言えば、ミュージシャンや他業種など交友関係の広いですが、出会いやキッカケはなんですか?
今はブランドの仕事で東京に行った時に知り合ったり、既に仲の良い方からの紹介であったりが多いですね。あとはバンドで東京に行っていた頃から、この人と一緒にやりたいなって思ったら、必ず繋がる。運なのか、縁なのか、そういったものは、昔から強いですね。それと、こういった仕事をしているので、普通の会社員の方に比べて、いくつになっても友達が増えますね。バカみたいに朝まで飲み明かしたり、騒いだりっていう事も出来るしね。でも、意外と名古屋の友達は少ないかもな〜。最近は競輪選手だったり、大会社の社長さんだったり、病院の先生だとか、いろんな業種のいろんな方々と出会えてますね。
ー知多出身ということですけど、名古屋には出てこなかったんですか?
知多にいて、バンドが元々豊橋のバンドだったので、すぐに名古屋っていう事にはならなかった。その後、バンドのみんなで名古屋には出て来ましたけど。当時の大須は『Electric…
monkeyflip-岸★正龍さん
ー岸さんの経歴を簡単に教えて下さい
すごく簡単に説明すると、東京で広告制作の仕事をしていて、そこから独立して、タレントショップのグッズを企画、デザインみたいな事をしていた。けれども、バブルがはじけて、会社もなくなってしまった。どうにもいかなくなり、名古屋に戻って、親父の店を手伝っていたけど、自分の店を出したいと思い、動き出したわけです。
ーそれはおいくつの時のお話ですか?…