『unchain』代表 小寺茂雄

ーでは、宜しくお願いします! まずは生まれや育ちなど、小寺さんのルーツを教えて下さい。 生まれも育ちも大須!…

(有) フリークストリート 取締役 木下“A”つしさん

ーでは、宜しくお願いします! まずは、生まれや育ち、年齢などを教えて下さい。 生まれは東京なんですが、1歳くらいから岩倉市に引越して、それからずっと今でも岩倉在住です。昭和40(1965)年生まれの45歳で、SABADOとかウチの代表取締役の相棒も同年齢。結構、大須の中では多いんですよ。同年齢と言えば、今扱っているシルバーアクセサリーブランド「ZOCALO」との出会いもすごい偶然なんですよ。相棒がメキシコ旅行中泊まった宿に、たまたま新婚旅行に来ていた同級生も泊まっていて、「偶然だな〜!…

ECCENTRIC SUPER TATTOO タトゥーアーティスト SABADO

ーSABADOさんの経歴を教えて下さい。 岐阜の多治見市生まれ。ずっと地元で育って、学校卒業して20歳くらいの時は、SONYとかの機械の設計をしていた。だけど、ふと「やっぱり男は冒険しなきゃ!…

三味線屋『浅田屋』 6代目 吉田和正

  ー吉田さんの経歴を生まれからざっと(笑)教えて下さい。 昭和31年にここ(大須)で生まれてから、ずっとここ(大須)で育った。それで、ウチが江戸時代の享和三年(1803)から続く三味線屋。そのせがれとして、4人兄弟の末っ子に生まれたのに、なぜか小さい頃から親父に「お前が跡取りだ」と言われてきたんだわ。一番上は姉さんで、長男は婿養子、下のふたりが家に残って、しばらく三味線屋を手伝っていたんだ。その頃、俺が中学から大学の頃かな、その頃はまだ三味線屋が忙しかった時代でさ、宅急便も普及してない時代。だから、東京のお客さんには直接納品していたもんね。新幹線に乗って、納品しに行った帰りに代金を貰ってくる。まだ高校くらいの俺が400万円くらいの現金をそのまま持って帰ってきていたからね(笑)。なんか買ってやろうかとも思ったけど(笑)、そこまでの交通費をお客さんがくれるから、そのお金で服を買ったり遊びお金に使っていたかな。あの頃はめちゃんこ良い時代だった。 ー高校を出てからはどうしていたんですか? 大学は東京の駒沢大学。あそこは坊さんの学校でね、お寺の子が多くて、当時付き合っていた彼女も和歌山の方のお寺のひとり娘さんだった。その親御さん、俺が三男坊だと知ったら、親父のところに「息子さんを婿養子に欲しい」と口説きに来た(笑)。まぁ、その後いろいろとあった結果、結局お寺の跡取りにはならず、横浜に住み込みの修行に行かされたんだわ。けれども、1年半過ごした頃に親方が病に倒れてしまって、「もう教えられないから、親父さんのところに帰りなさい」と言われちゃってさ。名古屋に帰ったところ、親父からは「お前がケツ割っただけだろ」って怒られて、どっちからも受け入れられなくなっちゃてさ。その時、俺、いい歳して泣きながら新幹線乗った覚えがある(笑)。横浜に帰って親方に事情を説明したら、「それなら手紙を書く」って言ってもらえて、ようやく家に帰れた。その後はまた親父と一緒に三味線屋の仕事をしていた。昔で言うと、三橋美智也なんかの三味線もウチで修理していた。あとは津軽じょんがら節で有名な木田林松栄とかもお客さんだった。 ーさすがは老舗中の老舗ですね。けれども、聞いたところによると吉田さんはいろいろと違う分野の事もやられてますよね? そう、そんな三味線屋の息子がどんな半生だったかと言うと(笑)、徐々に時代も流れて、三味線屋が三味線だけで食っていくのも限界が見え始めてきたんだよ。で、親父から「お前は大学時代から海外にもいろいろと行っているし、おもしろい事を見つけるのが得意だろ!?…

『甘藍』 代表 古謝英樹

ー当サイト「ooooosu! 」をご覧になった事はありますか? あります!…

CLAMPNODE 代表 山内建吾

ー山内さんの簡単な経歴を教えて下さい。 名古屋で生まれて、名古屋で育った。最初は建築、それで大工、鳶などを自分で経営していて、そこにいた若い者を独立させて、ひとりで家具や什器、今では革を作っているかな。大分、省略しているけど、こんな感じだね(笑)。 ーではもう少し詳しく聞かせて頂きます(笑)。建築や内装時代に手掛けた案件の中で思い出すエピソードは? 主な所だと矢場町のガスビルや東京の「wjk」。「wjk」はひとりで受けて、自分だけのデザインでやったから、あれは面白かった。あとはツインタワーにも携わった。でも、その時に両足骨折(笑)。ワンフロアが普通のビルの2階分の高さなんだけど、そこから落ちたんだわ。痛いけど歩けない程じゃないから、歩いて病院まで行って診察したら両足骨折。もちろん車椅子。そう、車椅子って、なかなか乗るのが難しくてさ、大変だったけど、2ヶ月で極めた(笑)。大分速くなったし、ウィリーも出来る様になった(笑)。いつの間にか、そこの病院に入院している若い子達とも仲良くなって、そこのボスになってた(笑)。その後退院したけど、もう現場には立てないと思ってた。そしたら親戚の兄ちゃんに、「建築現場の若い従業員の面倒を見てくれ」って言われて「リハビリがてら行くよ」って。行ったら、その子達があまりにも出来ないから結局自分で動く様になっちゃって、本当のリハビリになってた(笑)。その後に新しく立ち上げた会社には、入院時に仲良くなった若い子達3人くらいが気付いたら入社してた(笑)。 ーやはり親分肌なんですね(笑)。 その頃は人間としてダメな所が多かったと思う。会社経営の時は社長だから「俺は稼いでいる」って、ふんぞり返ってもいた。上から指示を出して、雑務は取り巻きがすべてやってくれる。でも、その時にいろいろと人間関係のごたごたがあったんだわ。当時はそれも全部人のせいにしていた。あいつのせいだとかあいつらが悪いとか。でも、結局は自分が入れた従業員だし、自分が蒔いた種。だから、自分が悪いんだと。そうやって、フッと気付いてからは反省して、前向きに動き出せた。今思うのは、ひとりで動き出したら全部自分がやらないいけないし、誰もやってくれない。今さらながら当時の下の者の気持ちが理解できるわ。 ー結構、落ちていた時期があったんですか? それまでの自分には、人間関係で悩むなんて想像出来なかったんだけど、あの時は誰も信用出来なくて、プチうつ状態。その時に樫森さんっていう今でもお世話になっている人に救ってもらった。落ちている時期でも、なぜかその人には会えた。元々知っていたんだけど、そこまで親しくしていた訳では無かった。でも、不思議と導かれる様に会いに行ってた。ここのショップもその人のおかげ。什器を提供してもらったり、色々と世話してもらって、今のショップが出来上がってる。 ーなるほど。では、建築系から革職人へと進む様になったきっかけは? それは、マンションのリフォームを手掛けた時に、お客さんから扉とか色んな所に革を張って欲しいっていう要望をもらってから。それから、余った革で自分のかんな用にケースを作ろうかなって思って、そのケースを作ってみたら、すごく良い感じに仕上がった。それから「なんか良いな革!…

CRUNCH 代表 山口晃生

ーまずは山口さんの経歴を簡単に教えて下さい。 名古屋生まれでずっと名古屋で育ちました。今は結婚して瑞穂区に住んでるんですけどね。服飾業界との出会いは、パルコでの販売員が最初です。3年くらい働いて、その後、とにかく男を感じる仕事がやりたかったので、トラックに乗ったり、力仕事系をやりましたね。それが24歳くらい。その時に結婚したんです。で、結婚したんだけど、それまで就職した事が無くて、当時はフリーターじゃないですか!?…

(有) magic children 代表 原佳希

ーまずは原さんのおおまかな経歴を教えて下さい。 元々、父親が『UNCLE…

株式会社アンティークルーズ 代表取締役 小川賢司さん

ーまずは小川さんのおおまかな経歴を教えて下さい。 名古屋生まれの名古屋育ちです。古着好きになったのは中1くらいですかね〜。何かの雑誌で見た古着特集と、姉が大須で買ってきたGジャンを同時期に見てバチっと来ましたね(笑)。元々物が捨てられない少年というのあったんですけど、そのタイミングですごく楽しくなってしまいましたね。当時、1ヶ月に1回くらいパルコの前でフリーマーケットをやっていて、もちろん中学生時分では買えないモノもあったんですが、数百円のモノもあったりして。それで高校の頃には、芸能人などがこぞって古着を着用したりして、古着ブームのような事が起こったんですよ。より一層洋服に興味が湧いて「こりゃ東京に行きたい、行かなきゃ」と思いまして、その為に東京の大学を受けて上京(笑)。そのままの流れで向こうの洋服屋さんで働く事に。古着屋が多かったですけど、そうじゃないお店でも働いていました。それと、高校からの友人も東京で他の洋服屋さんに勤めてまして、「いずれは自分達のお店を」という考えを高校時代から語っていたんです。まさか実現はしないだろうくらいの心持ちだったんですけどね。それと、自分自身、その頃から結婚を考えるようになりまして、ここらでやるかと奮起した訳です。 ーお店をやるのは元から名古屋に戻ってという考えだったんですか? そうですね。東京だと原宿とかにいっぱい買物でお客さんが来るじゃないですか〜名古屋の人も買物に来たり。そうすると、こっちの地方の人達は自分がどこから来たのかを全く話さなかったり、地元の方言で話さないんですよ。他の地方の人達は「東北から来ました」とか、地元の方言を話したりするんですけどね。こっちの人達は「旅行です」とか「観光でちょっと…」みたいにどこか見栄を張ったり、東京に負い目を感じて格好をつけるみたいな、どこかそういった地域性、県民性ってありますよね。で、よくよく考えたら自分にもそういった事あるなぁと感じて。だから、名古屋でお店を出して、「この狭い日本なんだから、そんなに変わりはないよ。僕らも充分お洒落じゃないか」って示せれたらいいなと。だから、自信を持って名古屋から東京に買物や旅行に行って欲しいなと思って、27歳の時にオープンしました。 ーそれで、先ほどお話しされた高校の時の友人と共同経営で始められたんですか? 共同経営となると、どうも失敗する気がしたので自分が上司で、友人には俺の部下になってくれというようにしました(笑)。っていうのは、“共同経営でやっている”であったり、“お友達とやっている”と見られたり、感じたら、絶対にうまくいかない感じがしたんですよ。だから、今となっては余計に友人関係ではいられなくなってしまいましたね。メールもしづらいですし、休日に何をしているかも分からないですし、聞きづらいですからね(笑)。でも、それを分かってくれる人だったからよかったですね。なかなか友人関係で経営していくのは難しいですからね。やっぱり、その関係を辞める覚悟がないとうまくはいかないですよ。 ーお店は最初から現在のこの場所(大須3-13-38…

cut atelier room 3 古田隼人

ー古田さん自身のこれまでの経歴を教えて下さい。 出身は東海市というところで、父も母も理容師で、実家は僕が小さい頃から理容室を営んでいたんです。所謂、床屋さんの息子として育ったんですが、全然理容師も美容師もやるつもりはなかったんですよ。たまたま親戚の人達もそういう関係の人が多かったというのもあり、勧められるがままに、結局はこの道に進んだというのが、僕のはじまりですね。美容学校に通って、そのまま名古屋の美容室に勤め始めました。1店舗目は星ヶ丘のお店で、2店舗目は栄地区のお店で10年ほどやり、独立したという形です。 ー独立されたこの『cut…