『株式会社テイクアヘッジ』 代表取締役 酒井貴浩

―今回のTalk Relayは、前回の伊藤さんと高校…

『株式会社アサイン』 代表取締役 伊藤一徳

―いきなりですが、モテるらしいですね? 紹介者の鬼頭さんが言っていましたよ。 …

美容院 『ISLA por EFFE』 Owner 鬼頭幸裕

―そもそもな話ですが、鬼頭さんはどうして美容師になろうと思ったのですか? 高校生のときに経験した美容院でのバイトがきっかけでした。当たり前な話ですが、最初のころはホントに何もできなくて。バイト時代に僕が到達できたのは、ギリギリでシャンプーをまかせてもらえるくらいのレベルでした。でも、なんだか妙に良かったんですよね。ヘアサロンという空間が。 ―それで高校卒業後、美容系の専門に進学したってワケですね。 そうなんですよ。でも、名古屋にある専門に通ったんですが、実は僕の本意ではなかったんですよ、その学校に進むのは。 ―なぜですか? とにかく名古屋を出たくて…。セックスレスの夫婦じゃないですけど、僕の実家が中村区にあるためか、名古屋の街に対して刺激を感じることがほとんどゼロの状態だったんですよね。慢性的なナゴヤ不感症というか。このあたりの高校生とかは、休みの日に友達と遊びに行くとなると、だいたい栄や名駅とかでしょ? ふだん見ないような街並みを見て、触れて、感じることで「楽しい」と思うわけですが、僕にはそれがなかった。名古屋の真ん中がいつもの遊び場だったので。 ―じゃ、想いのまま名古屋を出れば良かったじゃないですか。 もちろん、僕もそうしようとしましたが、親に猛反対されちゃったんですよ。今でこそ笑えますが当時は相当キテましたね(笑)。誰にも文句を言われないようになってやる!って気持ちが芽生えたのはたぶんそのときかな。で、しぶしぶ名古屋の専門に通い、無事に卒業して、晴れて大阪の美容室に就職――といったのが僕の美容師になるまでのざっくりとした流れです。 ―そこで念願の名古屋脱出というわけですね(笑)。実際に行ってみて大阪の街はどうでした? 面白かったですよ。人も街もにぎやかで。ただ、当時の僕にとって関西人特有のノリはある意味ちょっとしたカルチャーショックでしたね。ベタな話ではありますが、僕の周りがそうだっただけかもしれませんが、向こうの人たちは本当に結構な確率で話の最後にオチを求めてくるんですよ。話をするたびに毎回そんなもんあるわけないし、その場しのぎの苦笑いで顔面がひきつりそうになるし…。 ―で、オチは? ないですよそんなもん! 話にオチなんていらん! 誰だそんな会話を締めるための定型文みたいなのつくったのは!(笑) ―大阪を楽しみながら鬼頭さんは美容師として修業を積んだわけですね。初めてカットを任されたのは入店してどのくらいですか? たしか二年半ぐらい経ったころだったかな。もう、すごく緊張しましたよ。女性のお客さまで、オーダー内容はエクステメインでカット量は少なかったものの、ひとりのお客さまを自分がメインで担当をするのは僕にとってははじめての経験でしたからね。手は震えるはやたらと遅いわで、たぶん、僕がデビュー戦だってこと、バレてたと思います(笑)。 ―その後、そちらの店を辞めて名古屋の美容室で再就職。またしても名古屋ですね(笑)。 そうですね(笑)。そのときもまだ本当は、大阪から名古屋を経由して、東京に行くつもりだったんですよ。でも、知人の紹介もあって入店してやっていくうちに自分のお客さまが増えてきて…。それで、せっかく僕を選んでくれださるお客さまを失ってまで東京に行くのも心もとないな、と。それに名古屋って街のことも一度離れたおかげか、だんだんその良さが分かるようになってきていたんですよね。 ―なるほど。分かれて気付く元カノの良さ、みたいな感じですね。で、それからほどなくして名古屋で開業されたそうですが。 はい、日々野に一号店を出店しました。学生からファミリーまで幅広い層の人たちが行きかう、動きのあるところだったのであの街を選びました。25歳のときです。 ―25歳!? かなり早くないですか? 今思うと、どうにかなるだろってノリもあったのかもしれませんね。ですが、僕は25で独立したことが早かったとは決して思いません。早いかどうかは自分自身が決めること。そう教えてくれたのは、大阪でお世話になったサロンの社長でした。とにかくその方は、行動力が尋常じゃなくて、考え方は絵に描いたようなNO保守的。そんな社長の影響もあって、僕は店を出したいと思った25歳のタイミングで出店した。ただそれだけなのです。 ―なんか、カッコイイですね。その流れで昨年11月、栄に2号店『ISLA…

THE BARBER 『GOLD SCISSORS』 代表 鈴木 新

ーでは、よろしくお願いします! まずは鈴木さんのこれまでの経歴を教えて下さい。 幼少期は親父の仕事の事情で東京、大阪など転々としていたんですが、母親の実家が名古屋だったこともあって、小学校低学年くらいからはずっと清須、なので地元は清須です。小中高と名古屋近辺で過ごして、高校卒業後、理容の通信で勉強しながら、理髪店で働きながらっていう流れです。 ー独立される前のお店にはどのくらいいらっしゃったんですか? 入社した当時は40人以上、3店舗くらいあった大型店だったんですけど、そこに約12年ほど勤めましたね。2011年いっぱいはそこで働いていて、2012年3月に自分のお店をオープンさせました。 ー自分のお店ということで「こうしたい!…

株式会社ロジャック 政木亮二さん・山本敦さん

ーでは、よろしくお願いします! まずはお二人のこれまでの経歴を教えて下さい。 政木さん:僕は名古屋市・港区で小中高と育って、専門学校も名古屋モード学園のインテリア・デザインコースとずっと名古屋です。 山本さん:僕は豊橋市で生まれ育って、専門学校で名古屋に出てきた感じです。最初は通いだったんですが、途中から名古屋に出てきました。その専門学校で政木と出会ったんです。 ー専門学校の同級生ということですね。卒業後すぐに一緒にはじめられたんですか? 政木さん:いや、僕も彼も最初は会社員として5、6年別々のところで勤めてました。別々の会社になっても連絡は取り合っていたので、そこを辞めたタイミングと色々なタイミングが合ったので、一緒にやりはじめました。専門学校時代から、なんとなく「一緒にやれたらいいな」っていう話はしていたんですけど。 ー主な仕事の内容をざっくりと教えてください。 政木さん:店舗の設計・デザインがメインなんですけど、幅広くやらせてもらってます。物件選びから広告制作、スタート前からゴール、その後もお付き合いさせていただいてますね。例えば、洋服屋さんのレセプションのケータリングを手配したり、クレジットカードの段取りをしたりと、様々な形で関わらせてもらってます。 ーこれまで手掛けた仕事も教えてください。 政木さん:今事務所のあるビルも手掛けました(西大須ビル)。完成当初は色々なメディアでも紹介してもらって、ウチの代表的な建物ですね。他はカフェとか洋服のショップなど、HP上でも紹介させてもらっているので、そちらを見て頂ければわかりやすいと思いますね。 山本さん:なかでも多いのは、カフェですかね。軽飲食店とかが多いですかね~。 ー多く手掛けられたそのなかでも、自分たちがやりたい・印象に残っている案件、建物はなんですか? 政木さん:もちろん、すべて印象深くて、すべて全力で取り組んでいるんですけど、西大須ビルのように、一から携われる仕事はやっぱりやりがいがありますね。なので、これからも受け身にならずに僕ら発信でやれるようにしていきたいですね。単に設計・デザイン、設計・工事で終わるのではなく、広告代理店・企画会社のようにいろいろとクライアントと関わっていけるようになっていきたいです。 ーいつ頃から「こういう仕事がしたい!…

『ZODIAC』 代表 高柳忍

ーでは、よろしくお願いします! まずは高柳さんのこれまでの経歴を教えて下さい。 名古屋・中川区で生まれて、3歳から蟹江ですね。だから、名古屋の記憶はあんまりないんですけどね(笑)。小中高と地元で過ごしてきて、それから今とは全然畑違いの整備士の専門学校へ進んだんですよ。そうしたら、学校は服が好きな子たちばかりで、そこで刺激を受けたかな。もちろん、小さい頃から自分も服は好きで、家族で出掛ける時は毎回おねだりして買ってもらってたくらい。 ーあっ、整備士の学校に通ってたんですね! でも、整備士の学校が面白くなかったからやめて(笑)、18歳の時に某大手の服屋に勤め始めました。2年くらいそこに勤めましたかね。辞めた理由は、大きな会社だったので社長の顔も知らなければ、誰に対して付いて行けば良いのかも分からず、それに評価も上がらなかったので、「自分でやった方が良いんじゃないか?…

『丸長産業株式会社』 専務取締役 井谷睦

ーでは、よろしくお願いします! まずは井谷さんのこれまでの経歴を教えて下さい。 生まれは岐阜県・岐阜市で、小さい頃からヤンチャで学校でも先生によく怒られて、廊下に立たされているような、そんな子どもでしたね。高校まで地元の岐阜にいて、大学は東京の明治大学に進学して、経営学を学んでました。 ー六大学とは高学歴…。 両親ともにいわゆるスパルタ教育だったので、受験勉強などにはうるさかったですね。卒業後に2年間、東京のレディースのアパレルメーカーで働いてました。そこは今でも取引などでお世話になっています。その2年間は、自分の中では修行のような感じで、その後は実家が営んでいる会社を親父から引き継ぐような形で今に至ります。 ーご実家がアパレルの会社なんですね? そうですね、元々は大須やアメ村に卸すような卸問屋です。どうにも卸の方が“渋く”なってきた…まぁ、儲からないと言うことで、直営の小売店を出そうと思ってできた1号店が大須の『M-03』です。12年前2000年です。僕は、1号店を出す半年後くらいに戻って来ました。そこから、卸も店も携わる形で今まで来ています。 ー継ぐことに関しては嫌だなっていう気持ちはありませんでした? 元々、小さい頃から洋服が好きで、色々なショップで買い物をするのが好きでしたので、そういう気持ちはなかったですね。早いうちから実家の商売をやりたいなって思いがありました。兄がいるので、兄弟で継いでいる感じです。 ー兄弟で会社を大きくしていくなんて良いですね。 兄は元々、大手企業にてシステムエンジニアとして勤めていたので、アパレル畑でなかったんですけど、少しアパレルで修行をして実家に戻って来ました。今では現場派の僕、システム・経理担当の兄、という感じでやっています。僕自身アナログなので、すごく助かっています。それぞれの特色を活かせているのでうまく会社を回せて良かったです。来年には父が会長、兄が社長、僕が専務という形になると思います。 ーどのタイミングでベントレーに乗るんですか(笑)? う~ん、乗りたいね~(笑)。昨日も韓国からの帰りに空港でベントレーを見かけて嫁さんに、「あれ、乗りて~な!…

『有限会社シーン』 代表取締役 木野進

ーでは、よろしくお願いします! まずは木野さんのこれまでの経歴を教えて下さい。 生まれも育ちも静岡県藤枝市です。幼少から高校までは地元だったんですが、大学は新潟の大学に進学しました。ですが、2年で中退。そこが、まずひとつ目の人生の壁でした。“大学中退”という響きで、なかなか希望に合った就職ができなかったですね。面接でも、先方はそこが気になるようで、「なぜ辞めたんですか?…

Relier les coeurs 代表 大久保良平さん

ーでは、よろしくお願いします! まずは大久保さんのこれまでの経歴を教えて下さい。 昭和46年に名古屋市中村区で生まれ、そのまま高校の途中まで名古屋で育ちました。それからアメリカに留学して、結果、10数年以上アメリカに住んでました。大学卒業してからは、向こうで何年かサラリーマンをして、その後会社も経営してましたよ。業種は、ホテル、レストランとかに勤務する接客業をずっとやってました。 ーそこから、現在の仕事に移るきっかけは何かあったんですか? う~ん、そろそろ日本に戻ろうかなと思ったのが、きっかけですね。と言うのも、アメリカの経済状況だとか、テロの影響もあったりと、色々とタイミングが重なって日本へ戻って来ました。それで結婚を経て、元々、奥さんが姉妹でアパレルのお店を始めていたので、僕の海外での会社経営の経験も活かし、そのお店を共同で経営するようになりました。お店自体は今年で16年くらい。僕が携わり始めて9、10年かな。 ーアイテムのセレクトや買い付けはどのように? ここ1、2年は、夫婦や奥さんと奥さんの妹のどちらかで年に4、5回は海外に買い付けに行っていますね。どれも2週間くらい。だから、1年に2ヵ月くらいは向こうに居る事になるかな。向こうに居る時は、僕が海外に居た経験を活かして、それまでの人脈を辿って紹介をしてもらったり、奥さん達の人脈を活かしたりして、買い付けしてます。それに英語を書いたり、話したりする事は、向こうに住んでいたおかげで僕は苦もなくできますから。奥さん達のセンスと、僕の語学力などを活かして、他にはない独自のルートをどんどん広げていけてますね。 ーヨーロッパの買い付けと聞くと、イメージでは優雅な印象があります。 とんでもない、ボロボロですよ(笑)。国から国へは、列車で長時間移動がざらです。国の北から南に移動する事もありますし。ここ最近はさらに景気の影響もあったり、なんだりで、必ず新規のルートと契約して、試してみたりするので、優雅に買い付けなんて事は絶対にないですね。それにヨーロッパは日本よりも物価が高いですから。航空会社も名古屋からの直行便が減ったおかげで、成田経由だったり、日時が合わずで3つくらいの航空会社を回して利用しているおかげでマイルも思ったより貯まらないですよ(笑)。 ー買い付け時に気を付けるポイントは何ですか? スタッフ全員が作る買い付けノートっていうモノを一番参考にしていますね。最近の流行りや動向、お客様の好みや希望、スタッフがオススメするモノなどを書いたり、雑誌の記事を貼付けたりして作っているノートなんですけど、もうかれこれ10年以上はそれを作っているし、参考にしています。バッグはヨーロッパの新品の物を扱っているんだけど、アクセサリーはクリエイターの展示会に行って、ロットで買い付けたり、ヴィンテージを見つけてきたり。服はUSEDやヴィンテージがほとんど。それらを50×50×50の段ボールを20~30箱くらいを空輸で運んでます。船便とかではないので、コストも掛かりますね。 ー他店には負けないお店の特徴・ウリはどのように考えていますか? とにかくお客様を大切にする事。ウチに無いモノをお探しならば、知っている知識で他店をオススメしています。良いモノは良いし、わざわざ他店を蹴落とす事やケンカする事も無いと思うので。ウチは、一点一点独特なモノを買い付けて来るので、お客様も長くウチを愛してくれる方が多いですね。それと、アフターケア。靴やバッグ、アクセサリーまで、リペアや故障、交換に関しては、徹底してやらせてもらってます。僕が以前、接客業に携わっていたっていうのも大きく影響していると思う。 ーでは経営に関する事は大久保さんがなさっている? 経営ばっかりって訳でもなく、年に何回も買い付けに行っているおかげで、時計や靴、アクセサリーのあるブランドなどは、僕もそれなりに目利きはできるようになりました。舵取りはしているけども、お店の思想やスタッフの育成なんかは、奥さん達に任せています。なんて言ったってスタッフは僕以外全員女性ですから(笑)。見た目から、ワンマン社長みたいなイメージを持たれがちですけど(笑)、違いますね。逆に女性を立てるし、立てたいと思ってますから。 ースタッフさんへの教育や接し方はどのようにされていますか? ちょっと少ないんですけど、現状3店舗を10人くらいで回してます。もっと増やしたいとは思っているんですが。スタッフは、みんな明るく楽しく一生懸命。それに長く働いてくれますね、アルバイトの子でも3年以上働いてくれますし。若いスタッフに関しては、僕らはもうお父さんやお母さんのような心持ちですよ。接し方は、時に厳しくっていう感じですかね。ミーティングでは厳しい事も言うけれど、プラス思考、良い事に関してはすべて叶えられるように動いていこうと言うし、受け入れるけど、マイナス思考、マイナスな意見はひとつも受け入れない。もちろん、筋が通っていて、正しい事なら受け入れるけども。お店が良い方向に向かう事はすべてやるべきだし、やってあげたいと思うから。 ーなるほど。では、栄・PARCOへの出店、“感触”としてはどうですか? ファッションテナントビルに入る事が初めてだし、まだ入って半年くらいだから、何とも言えない、模索中です。デパートや百貨店とも違うし、名駅、大須とも違うし、客層も全然違う。ましてや西館、南館でも違うから。栄店に関しては、この1年は試行錯誤の連続だと思ってます。来られるお客様のニーズに合わせて、応えられるように。ウチとしては、大須も栄もどちらも大事・大切なので、うまくやっていきたいですね。 ー大須と栄を知る経営者として、双方の街を比べて、どうですか? そうですね、個人的な印象もあるけれど、大須は一点物、付加価値のあるモノを探される方が多くて、栄はブランド志向の方が多い印象ですかね。だから、アイテム、ブランドも違うモノを置く必要があると思っています。一緒にすると、距離的に近いから、意味を持たなくなるっていうのもあるけれど。そういうのもあって、名駅と大須の距離感が理想だったんですけどね。同じモノを置いても名駅が近いお客様、大須が近いお客様がいらっしゃる思うし。まぁ、大須と栄を行ったり来たりしてもらえるように試行錯誤です。展開としては、栄店の今後と、若いスタッフの育成かな。人間ひとりでは何もできないので、みんな助け合って、ウチならではの独自な路線を進んで行ければと、贔屓にしてくれるお客様を大切にしていきたいです。 ー分かりました。では堀場さんから頂いた3つの質問にお答え下さい。ひとつ目「友達2万人って…ホントですか(笑)?…

『株式会社 巴屋商店』 4代目 堀場源一郎

ーでは、よろしくお願いします! まずは堀場さんのこれまでの経歴を教えて下さい。 幼少の頃から、大須小学校、前津中学校と、生まれも育ちもココ(大須)です。高校は…ちょっと複雑な事情により(笑)、愛知高校に1年通った後、転校して、三重の鈴鹿高校に通ってました。編入試験の成績が良かったのか、特進クラスに入ることになって、のちに名古屋商科大学に通うことになるんですよ。当時は、0~7時限目まで授業があって、毎朝6:10の近鉄に乗って鈴鹿まで通いでしたね。帰りはいつも19:00くらいだったかな。部活なんてやっていないのにね(笑)。そんな高校生活。大学へはストレートに入学したんだけど、2留しちゃった(笑)。 ーそれは、当時何かにハマっていて、大学より優先させていたとかですか? いや、全然(笑)。もちろん、人並みにディスコ行ったり、友達と遊んたりってことはしてたけど、まったく大学を軽視していた訳ではなかったんですよ。『unchain』の小寺さん(※TALK…